黒田二十四騎

福岡市博物館所蔵:文責 本山一城氏

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1.黒田兵庫助利高  天文23年(1554)~文禄5年(1596)

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利高は黒田(もと)(たか)の二男で姫路に生まれ、母は官兵衛と同じである。性格は実直で柔和、思慮深く、物事に動じなかったと言われている。長政の後見役を務め、家中の者から慕われた。道で駕籠に乗った長政に出会えば馬から飛び降りて頭を地に付けて平伏し、家臣たちに藩士としての手本を見せた。

官兵衛に従って播磨各地で戦功を挙げ、弟達とともに秀吉の馬廻り組となり、英賀(あが)城幕下の(ちょう)()(つぼ)弾五郎を倒して町ノ坪城主となった。小牧・長久手の戦いでの泉州岸和田の陣、四国攻めに独立武将として参戦した。その後黒田家に戻り、九州攻めでは先手を務めて長政を助けた。

豊前入国後は宇佐地方の要害である高森城代となり一万石を領した。豊前で土豪一揆が起きると宇佐神宮を守り抜き、母里太兵衛らとともに宇佐郡の土豪を鎮めた。

その後、文禄の役で奮戦したが体を壊して休戦時に帰国し、和泉国堺で没した。キリシタンであったと言われているが、洗礼名は不明である。官兵衛と間違われるほど筆達者で、書状がよく残っている。

利高は生前宮本武蔵の父、新免(しんめん)無二之助を招いて藩士に剣を学ばせていた。その甲斐あってか、子の政成は石垣原の戦いで戦功を挙げ、筑前入国後一万四千石を領した。

 

2.黒田修理亮(しゅりのすけ)利則  永禄4年(1561)~慶長17年(1612)

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利則は黒田職隆の三男で姫路に生まれ、母は(かん)()城主の未亡人で、官兵衛、利高とは異母兄弟である。播磨平定後、利高とともに秀吉の馬廻り組となった。(しず)()(たけ)の戦いで活躍し、その後は羽柴秀長に従って九州攻めに参加し、豊前入国後は黒田家に戻って二千石を領した。

文禄の役では長政に従って朝鮮に渡り、休戦中に頭を丸めて養心と号した。慶長の役では旗本備として四十二人を従えて再び渡海し、忠清道の稷山(チクサン)で戦功を挙げた。

九州関ヶ原の戦いでは官兵衛に従って豊後国(とみ)()城攻めに参加し、その後七百人の兵とともに中津城を守った。

筑前入国後は一万二千石を領して宗像郡津屋崎城代となった。父職隆の菩提を弔うため那珂郡一瀬村に心光山正岸寺を建立し、職隆の画像を奉納した。さらに官兵衛が没した時にも崇福寺に如水居士画像を奉納した。

 

3.黒田図書助直之  永禄7年(1564)~慶長14年(1609)

03s

直之は黒田職隆の四男で姫路に生まれ、母は家臣母里小兵衛の未亡人である。兄二人と同じく秀吉の馬回組となり、その後羽柴秀長に仕えて大和郡山城下に住んだ。秀長筆頭の重臣藤堂高虎とは屋敷が隣であった。

豊前入国後は兄とともに黒田家に戻り四千五百余石を領した。中津城下で洗礼を受けミゲルと名乗った。官兵衛に従って小田原攻めに参加し、北条家の家臣由良新六郎の女と結婚し、妻もまた洗礼を受けマリアと名乗った。

朝鮮の役にも参加し、慶長の役では長政の下で旗本備として百二十人を従えて稷山の戦いで功名を挙げた。また、梁山(ヤンサン)城で官兵衛が千五百の兵で明軍四千人を撃退した戦いにも参加した。

九州関ヶ原の戦いでは富来城攻めで先陣を務め、柳川城攻めでも活躍し、久留米のキリシタン保護に尽力した。

筑前入国後は秋月で一万二千石を領した。直之は熱心なキリスト教徒で、二千人の信者を保護し、秋月はさながらキリシタン王国の体をなしていたと伝わっている。秋月には今も天主堂跡とキリシタン橋が残っている。

直之は臨終の時、枕元で息子パウロに聖書を読ませ、信仰を貫くよう遺言し、長崎のキリシタン墓地に埋葬されたと伝わる。

 

4.栗山四郎右衛門利安  天文20年(1551)~寛永8年(1631)

04s

利安は姫路近郊の栗山に生まれ、十五歳の時に官兵衛に仕えた。官兵衛に似て知恵もあり武勇にも優れていた。

青山の戦いに初陣として参加して以来、武功を重ねて加増された。官兵衛が有岡城に幽閉された時は伊丹の商人の助けにより牢に近づき、官兵衛に播磨の情勢などを伝え、有岡城落城の時は官兵衛を土牢から救出した。

山崎の合戦で勝龍寺城を攻めた時には城の大手で槍により一番首を挙げた。また、小牧長久手の戦いの岸和田の陣で根来雑賀衆と戦った時にも菅正利とともに戦功を挙げた。

九州攻めでは宇留津(うるづ)城攻めでも戦功を挙げた。豊前入国後は六千石を領し、平田城代を任され、三家老の筆頭となった。また豊前の土豪が立て籠もる長岩城、(かり)(また)城を攻め落とし、官兵衛、長政から称賛された。

朝鮮の役では兵百五十六を率いて一の先手を勤め、江陰(カハン)城を守り、稷山の戦いでは明軍相手に戦功を挙げた。

関ヶ原の戦いの時は、母里太兵衛とともに大坂城下の官兵衛・長政の夫人を脱出させ、海路で豊前中津城に戻った。九州関ヶ原の戦いでは安岐(あき)城攻めに加わり落城させた。

筑前入国後は上座郡()()()城代となり一万五千石、息子大膳利章と合わせて二万石を領した。生涯で首五十七級を挙げ、晩年には備後守を名乗った。

官兵衛からは全幅の信頼を寄せられ、臨終の時には伏見城下の藩邸に長政とともに枕元に呼ばれ、官兵衛愛用の「合子(ごうす)の兜」を托され、長政の親代わりに指名された。官兵衛が没すると菩提を弔うため官兵衛の戒名を冠した円清寺を筑前国朝倉に建立し、キリスト教入信を記載した画像を納めた。

 

5.久野(ひさの)四兵衛重勝  天文14年(1545)~文禄元年(1592)

05s

久野氏は父重誠(しげなり)の代から黒田職隆に仕えており、重勝は播磨国加東郡に生まれた。初めは官兵衛の小姓として仕え、後に黒田家の家老となった。

九州攻めでは宇留津城攻めで戦功を挙げ、(たか)()城では一番乗りをし、秀吉から感状を与えられた。また、九州平定後、戦乱で荒廃した博多の復興を命じられた時は、小銭を使って区画図を描き、桶を駕籠代わりに担がれて現地へ通い、二十日間で町割りの基礎を作ったとの逸話が残っている。

豊前国中津では三千石を拝領した。官兵衛が肥前名護屋城の縄張りを命じられた時も重勝が小銭を使って城下の陣屋割を手際よく決めた。土地区画の名人とも言われる。

朝鮮の役では小西行長の籠る平壌城救援で敵を討ったが、物見に出た時に毒を塗った相手の刀で負傷し翌日没した。

 

6.井上九郎右衛門之房(これふさ)  天文23年(1554)~寛永11年(1634)

06s

井上氏は信濃国高井郡井上が発祥地で、南北朝の頃播磨に移った。之房は姫路の海辺松原で生まれた。黒田職隆の小姓となり隠居後も仕えたため、学はあったが戦の経験はなく、背も低く力も劣っていた。

官兵衛が有岡城に幽閉された時、栗山利安、母里太兵衛らとともに商人の姿で代わる代わる牢に近づき官兵衛の様子を窺った。

職隆没後は遺言によって官兵衛に仕え、九州攻めから宇留津城攻め、(ひめ)(ぐま)城攻めなどで戦場を駆けるようになった。豊前入国後は中津で六千石を拝領し家老に抜擢された。

朝鮮の役では二百九十六人を従えて二の先手を勤めた。

九州関ヶ原の戦いでは官兵衛に従って中津に残り、石垣原合戦で大友(よし)(むね)軍の大将吉弘嘉兵衛と馬上で一騎打ちを演じて打ち取り、これが契機となり義統は降伏した。義統は文禄の役では黒田隊と行動を共にしていたので、之房と嘉兵衛の二人は顔見知りであった。井上隊は二百二十七の首級を挙げ、之房も戦功抜群であり官兵衛から恩賞として腰刀を賜った。

筑前入国後は黒崎城代となり二万石を拝領した。徳川家康も之房の人柄に惚れ、長男の庸名を五千石の旗本に抜擢したほどである。晩年は周防守を称し、道柏と号した。

大坂冬の陣には忠之に従って参陣し家康に謁見した。

之房は職隆、官兵衛、長政、忠之の四代に仕え、忠之の代に起こった黒田騒動では黒田一成とともに藩の側に立ち、幕府の評定で栗山利安の嫡男大膳と相対した。

 

 

7.母里(ぼり)太兵衛友信  弘治2年(1556)~元和元年(1615)

07s

太兵衛は御着城主小寺家の家臣曽我大隅守一信の次男として姫路の海辺妻鹿で生まれた。青山の戦いで一族二十四人が討死した母里家を継ぎ、十四歳で官兵衛に出仕した。  太兵衛は身の丈六尺半の大男で髭も濃く、勇猛で頑固な性格で知られた。

官兵衛が有岡城に幽閉された時、栗山利安、井上之房らとともに商人の姿で官兵衛の様子を窺った。また、栗山利安らとともに起請文に名を連ね、このような危機に家臣が一致団結することを誓った。

中国攻め、四国攻めでも常に先手を勤めた。九州攻めでも宇留津城攻めで一番に攻め口を打ち破り城中に乗り入れ、戦功を挙げた。

豊前入国後は六千石を拝領し家老に就任した。長政の命で宇都宮鎮房(しげふさ)の出城赤旗城の攻防に加わり、伏兵を使って敵を敗走させた。その後黒田利高らとともに宇佐郡の土豪を鎮圧した。体を張った高名は太兵衛が一番で、中津城下に塚を築き首供養を行った。

朝鮮の役への出陣に際して秀吉より抜身の槍15本を拝領した。文禄の役では先手を務め、慶長の役の稷山の戦いでも戦功を挙げた。

伏見城下で長政から福島正則のもとへ使いを命じられた時、正則と大盃で酒を飲む代わりに名槍「日本号」を貰う約束をし、難なく飲み干して日本一の名槍を手に入れた。

関ヶ原の戦いでは大坂城下の官兵衛・長政の夫人を脱出させ、海路豊前中津城に戻った。九州関ヶ原の石垣原の戦いでは官兵衛の使者を務め、大友義統に降伏に応じさせた。

筑前入国後は鷹取城代となり一万八千石を領し、晩年は但馬守を名乗った。生涯で首七十六級を挙げ、藩内で最も多かった。

長政が江戸城天守台を築いた時は、普請奉行を務め秀忠から太刀を拝領した。

>>>母里太兵衛と名槍『日本号』のエピソード

 

8.後藤又兵衛基次  永禄3年(1560)~慶長20年(1615)

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又兵衛は姫路近郊の山田で生まれた。父後藤新左衛門はここに小さな城を構えていたが、早くに没しため伯父の藤岡九兵衛とともに黒田家に仕官した。しかし官兵衛が有岡城に幽閉された時、伯父九兵衛が裏切ったため、又兵衛も追放された。

又兵衛はしばらく秀吉配下の武将仙石秀久に仕えていたが、九州攻めの前に長政から百石で呼び返され数々の戦いで奮戦した。九州攻めでは宇留津城攻めで戦功を挙げた。

朝鮮の役では長政から先手を務めるよう命じられ(ペク)(チョン)城を守った。晋州(チンジュ)城攻めでは亀甲車に乗って一番乗りを果たし一躍有名になり、稷山の戦いでも功名を挙げた。

関ヶ原の戦いでは長政に従って戦い負傷した。

筑前入国後、大隈城代となり一万六千石を拝領し、隠岐守を名乗った。しかし、関ヶ原の戦いの戦後処理で黒田家と犬猿の仲となった細川忠興に接近し、黒田家から離れた。家中の内部情報に通じている又兵衛の逐電は黒田家にとって大問題であり、長政は諸大名に召抱えを禁ずる「奉公(ほうこう)(かま)え」という手段を講じ、又兵衛の再仕官の道を断った。

浪人となった又兵衛はその後豊臣秀頼に招かれて真田幸村らとともに大坂の陣を戦い、大坂城を守って討死した。体には刀槍の傷が五十三ヶ所もあったと記録されている。

 

9.黒田三左衛門一成(かずしげ)  元亀2年(1571)~明暦2年(1656)

09s

一成は元の姓を加藤と称し、摂津の守護伊丹氏の一族で、摂津国伊丹に生まれ、幼名は玉松といった。身の丈六尺で花鳥風月を愛した。

官兵衛が有岡城で土牢に幽閉された時、牢番を勤めていたのが一成の父加藤又左衛門重徳である。重徳は城内で仕えていた井口吉次の姉が官兵衛の世話をするのを容認するほか、栗山利安、母里太兵衛らが官兵衛と接触するのを黙認し、懇ろに対応した。

官兵衛はその温情を感じ、重徳の子を一人預かって養育することを約束した。重徳は有岡城の落城後、姿を消したが、官兵衛は一成に黒田姓を授け、わが子同然に養育した。

初陣は小牧・長久手の戦いの岸和田の陣で、その後四国攻め、九州攻めに従軍し財部城で戦功を挙げた。豊前入国後は中津で八十五石を拝領し、その後も加増されて四千五百石となった。姫隈城攻めでは井上之房らと猛攻をかけ手柄を立てた。また、第一回城井(きい)城攻めで敗北した時、菅正利、三宅家義らとともに命がけで長政を守り、長政の身代わりとなって討死しようとした。

朝鮮の役では長政から先手を務めるよう命じられ初戦の金海城攻めで一番乗りし、白川の籠城、晋州城攻め、西生捕城での籠城でも活躍した。稷山の戦いでも敵と組み打ち功名を挙げた。

関ヶ原の戦いでは長政に従い、特に(ごう)()(がわ)では予告した敵を倒して「毛付きの功名」として知られた。関ヶ原の本戦では三成の重臣蒲生将監と渡り合い打ち取った。

筑前入国後、下座郡三奈(みな)()において一万六千石を拝領し、三奈木黒田と呼ばれた。黒田騒動では井上之房とともに藩の側に立ち幕府の評定で栗山大膳と相対した。一成は二十四騎の中で最も長寿であり島原の乱にも参加し、晩年美作守を名乗った。

 

10.野村太郎兵衛勝(すけかつ)  永禄3年(1560)~慶長2年(1597)

10s

佑勝は母里太兵衛の異母弟で姫路城下の西城戸(現材木町)で生まれた。父曽我大隅守一信は西城戸領主であり、佑勝は長じて妻の実家の姓野村を継いだ。兄母里太兵衛に似て勇猛果敢であった。

初陣は播磨の局地戦で、その後小牧・長久手の戦いの岸和田の陣に参加し、九州攻めでは豊前国宇留津城攻めで戦功を挙げた。豊前入国後は中津で三千石を拝領した。中津城では敵対する宇都宮鎮房を切り伏せた。

文禄の役に従軍し、平壌攻めで首百七十五級、晋州城攻めで五十七級を挙げたが、帰国後体を壊し三十八歳の働き盛りで没した。

若くして跡を継いだ市右衛門佑直は、百五十八人を従えて慶長の役に出陣し、父佑勝に劣らぬ働きを見せた。石垣原の戦いでも野村の一隊で首百八十八級を取り高名し、官兵衛から恩賞として鞍馬を賜った。

 

11.吉田六郎太夫長利  天文16年(1547)~元和9年(1623)

11s

長利は姫路のすぐ北の()(しろ)山に城を構えていた八代道慶の子として八代に生まれた。十七歳で官兵衛に出仕し、黒田家家老の吉田姓を授かり、吉田六郎太夫長利と名乗った。

長利は父譲りの豪傑で、二間半の槍を常に持ち歩き、一生の間で戦場に臨むこと五十九度であった。また足が速く、一度に首二~三級を取るのは朝飯前で、官兵衛からは首を取ってくるよりも兜を取るように言われ、発奮して別所氏との戦いで言われた通り高級兜を奪って帰った。播磨攻めの時期に姫路青山街道脇で盛大な首供養を行った。

備中高松城の水攻めでは、石を積んだ船を並べて一斉に沈める方法を考案した。これによって川を堰き止めることが可能となり、水攻めが成功した。

九州攻めでは宇留津城攻めで戦功を挙げた。

豊前入国後は千八百石を拝領した。朝鮮の役では足軽の頭として釜山の西南金海城近くの海岸へ船を引き寄せ、先手の足軽の上陸を先導した。

九州関ヶ原の戦いでは父子で官兵衛に従った。国東半島の富来城攻めの時、兜に二発、歯茎に一発弾丸を受けたが、これが生涯唯一の怪我であった。

生涯で挙げた首級は五十級で、藩内第三位である。筑前入国後は千五百石を拝領し、壱岐守を名乗った。長政の嫡男万徳(後の忠之)の鎧着初では竹森次貞とともに甲冑を着せる役を務めた。生涯で浅い傷を一回しか受けなかった長利にあやかってのことという。

 

12.桐山孫兵衛信行  天文23年(1554)~寛永2年(1625)

12s

桐山氏は近江国坂田郡発祥の地侍である。信行は近江で生まれたとも、姫路で生まれたとも言われ、定かではない。性格は温厚で分別があったと伝えられている。

信行は官兵衛に従って十六歳で初陣するが、井上之房と同じで当初職隆に仕えたため戦功はほとんど伝わっていない。

豊前入国後は千石を拝領した。城井城攻めの神楽山城の攻防では三百五十人で原種良らとともに神楽山城を守った。また、九州関ヶ原の戦いでは馬ヶ岳城を三百余の兵とともに守った。

筑前入国後は四千石を拝領し、晩年は中老に列せられて六千石に加増され、初めは大炊助、後に丹波守を名乗った。

朝鮮の役では母里太兵衛隊が敗色と誤報し、それ以来口も利かない間柄であったと言われる。しかし、長政は冷水(ひやみず)峠の開拓に当たって二人に盃を交わさせ脇差を交換させて仲直りさせている。

信行は冷水峠の麓の(やま)()に筑前六宿の一つ山家宿を作り、初代代官となった。山家宿には信行の家臣志方彦太夫が建てた恵比須像の石碑が残っており、宿場の由来が記されている。

 

13.小河(おごう)伝右衛門信章  天文23年(1554)~文禄2年(1593)

13s

信章は御着城主小寺政職の家老であった小河三河守良利の弟で、播磨国()(のう)郡(現神戸市北区)に生まれた。初め小寺家に仕えたが、没落後は官兵衛に仕えた。

九州攻めに出陣し、豊前入国後は五千石を拝領した。また、長政の命により母里太兵衛とともに宇都宮鎮房の出城赤旗城の攻防に加わり敵を敗走させた。

文禄の役では小西行長在番の平壌と長政在番の白川を繋ぐ竜泉(リョンチョン)城を預かった。行長が平壌での明軍に敗れて撤退し竜泉城まで後退した時、信章は百梃の鉄砲を駆使して敵を食い止め行長を助けた。この時行長は信章に一緒に漢城(ソウル)まで撤退することを勧めたが、信章はこれを固辞し、長政も兵を出して白川城において明軍の南下を阻止した。

この軍功を聞いた秀吉は感じ入り、一万石への加増を約束し信章に帰国命令を出したが、信章は帰国途中、対馬鰐ノ浦で病により没し、恩賞も拝領できなかった。

 

14.菅(かん)六之助正利  永禄10年(1567)~寛永2年(1625)

14s

正利は播磨国揖保郡越部に生まれ、官兵衛が一万石の大名になった時に黒田家に出仕した。

賤ヶ岳の戦いに初陣して首二級を挙げ、官兵衛から称賛された。また、小牧・長久手の戦いの岸和田の陣で根来雑賀衆と戦った時にも栗山利安とともに戦功を挙げた。

豊前入国後、第一回城井城攻めで敗北した時、黒田一成、三宅家義らとともに長政を守った。

文禄の役で慶尚道で虎狩りが行われた時、長政が銃で仕留めたのに続いて、菅は一刀のもとに斬り殺した。虎の顎骨と爪が今も子孫の家に伝わっている。

関ヶ原の戦いでは内応の確約を取るために小早川秀秋に使いし、本戦では鉄砲隊を指揮して石田三成の重臣島左近を撃ち負傷させた。
筑前入国後は三千石を拝領した。長政は文武両道の正利を家老にしたかったが、朝鮮で受けた毒矢のために右頬があざとなったため辞退されたという。
剣の達人で新免無二流と疋田新陰流を極め、朱具足の使用を許されていた。藩内で人気が高く、その軍配団扇うちわが三奈木黒田家に渡り大切に保存されている。
朝鮮で虎を斬った刀は後に林羅山から「南山」の号をもらった。また、茶の湯をたしなみ、茶杓を自ら作り「南山茶匙ちゃさじ」と名付けた。晩年は和泉守を名乗った。

 

15.三宅山太夫家義  天文21年(1552)~元和5年(1619)

15s

家義は姫路近郊の三宅に生まれ、官兵衛の求めに応じて黒田家家臣となり、三百石を拝領した。山太夫という名は上月城の支城大山城を攻めた時、あのような小城を落城させるのは簡単と豪語し、その度胸に感心した官兵衛が、「孫子」の一節「不動如山」から採って名乗らせた。

播磨攻め、九州攻めで功名を挙げ、豊前入国後は三千石を拝領した。また、反乱を起こした宇都宮鎮房を降伏させるまでに四回使者を務めた。

第一回城井城攻めで敗北した時、敗北を悔やむ長政がなかなか菅正利の馬に乗り換えようとしないのを見て、長政を担ぎ上げ無駄死を戒めながら片手で馬を引き、もう片手で長政に取り付いで無理やりに退却させた。

朝鮮の役でも長政に従ってよく働くが、陣所で出火してしまい恩賞を削られ、筑前入国後は三千六百石に留められた。しかし代官領一万石を預けられ、水軍基地でもあった遠賀郡若松城代となり、船手頭として軍船の一括管理を任された。その間、家義は領内の若松恵比寿神社に鳥居を奉納するなどの善行も行った。晩年は若狭守を名乗った。

 

16.野口左助一成(かずしげ)  永禄2年(1559)~寛永20年(1643)

16s

佐助は播磨国加古郡野口に生まれた。幼名を藤九郎と言い、父浄金は越後から来た僧で、官兵衛の囲碁仲間であった。佐助は十七歳で出仕し、地元の地名を姓とした。

上月城の戦いでは高倉山城の大手口で一番槍の功名を挙げ、次いで三木城攻めでも二人を槍で倒した。

九州攻めでも障子岳、財部城で戦功を挙げた。

豊前入国後は六百三十石を拝領した。中津城で長政が宇都宮鎮房を謀殺した時は、家来七人を斬り伏せた。

中津では母里太兵衛の妹と結婚した。この時二人は長政から同寸で色違いの水牛脇立を使うよう命じられた。太兵衛が黒、佐助が朱であった。

朝鮮の役では晋州城で六尺の大男を組み伏せた。関ヶ原の戦いでは合渡川で鉄砲の一斉射撃を受けながら敵の首二つを取った。本戦でも勇敢に戦い戦功を挙げた。

筑前入国後は二千五百石を拝領し、益田親正とともに福岡城の石垣奉行を命じられ、穴太衆を指揮した。江戸城、大坂城の天下普請でも同様の働きをし、石垣造りの名人と呼ばれた。

二代藩主忠之の時代に百人組という足軽猛者集団を預けられ、三千石に加増され、福岡城南二の丸の城番を勤めた。島原の乱にも出陣し忠之の傍らに立って主君を守った。高齢のため自身の働きはなかったが、次男は家来と七人とともに討死した。

 

17.益田与助正親  天文11年(1542)~慶長16年(1611)

17s

与助は加古郡の貧しい農家に生まれ、もとは台所の水汲み係であった。ある時、官兵衛が正親を合戦に連れて行くと、根気強く体も頑強だったので(かち)長刀(なぎなた)持ちとし、益田姓を与えて八十三石の士分に取り立てた。益田の姓は長政夫人の母方の姓に由来する。官兵衛は下男、中間、草履取りからも人材を登用し、与助はその代表であった。

九州攻めで手柄を立て、豊前入国後は五百石を拝領した。城井城攻めでも大いに働いたが、兄は討死した。

朝鮮の役では足軽大将を務めた。農家出身のため足軽の扱いがうまく、関ヶ原の戦いでも足軽を使いこなし、自らも首三級を挙げた。

筑前入国後は三千石に加増され、鉄砲組頭になった。戦場での働きは一万石にも匹敵すると言われたが、読み書きができなかったため三千石に留められた。福岡城の築城では野口佐助とともに石垣の普請奉行を務めた。

御旗の進退は全軍の士気に関わる任務であり、この役割を立派に果たしたことから、筑前入国後に二千五百石を拝領し、後に石見守を名乗った。

朝鮮の役では、慶長の役の稷山の戦いで明軍の形勢をうかがい、味方を二手に分けて挟み撃ちにするよう進言し撃退した。

長政の嫡男万徳の鎧着初の時には吉田長利とともに甲冑を着せる役を務め、万徳が甲冑姿で箱崎八幡宮に参詣した時には旗を立てて御供をした。

 

18.竹森新右衛門次貞(つぐさだ)  天文19年(1550)~元和7年(1621)

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次貞の父清原貞俊は播磨国加古郡の日岡神社の社職で、黒田職隆に仕えた。戦乱によって社屋を焼かれ竹森となっていたので、姓を竹森と改めたという。

次貞は幼名を新二郎といい、十六歳の時に官兵衛付きとなり、初陣で兜首を取った。上月城の戦いの高倉山城攻めで城主福原助就(すけなり)、弟、家老を打ち取った。その功により士分に取り立てられて新右衛門と名乗り、秀吉からも直に赤裏の羽織を拝領した。

翌年の毛利水軍との戦いで一番首を挙げたが、左手の甲から手首までを斬り割られ、以後左手が不自由になった。

官兵衛が織田家の大名となり御旗と御馬印が制定された時、官兵衛の温情により旗奉行を命じられ二百石を拝領した。

賤ヶ岳の戦いでは敵の旗色が悪いことを見抜き、官兵衛がこれを受けて次貞の旗を進めて攻めたて勝利した。

御旗の進退は全軍の士気に関わる任務であり、この役割を立派に果たしたことから、筑前入国後に二千五百石を拝領し、後に石見守を名乗った。

朝鮮の役では、慶長の役の稷山の戦いで明軍の形勢をうかがい、味方を二手に分けて挟み撃ちにするよう進言し撃退した。

長政の嫡男万徳の鎧着初の時には吉田長利とともに甲冑を着せる役を務め、万徳が甲冑姿で箱崎八幡宮に参詣した時には旗を立てて御供をした。

 

19.林太郎右衛門直利  永禄12年(1569)~寛永6年(1629)

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直利は武田家旧臣松本主税助の次男で、信濃国軽井沢に生まれ、林は母方の姓である。主税助は上野国攻略の先鋒を務めたが、長篠の戦いの後に姫路に移り黒田家に仕えた。

初陣は小牧・長久手の戦いの岸和田の陣で、九州攻めでは宇留津城攻めで戦功を挙げ、絶えず長政に従った。二十四騎の中で二番目に若い。豊前入国後、五百十四石を拝領し、長政が城井谷で敗北した時は槍で敵を防いだ。

朝鮮の役で長政が慶尚道で虎狩りを行った時、長政と菅正利が一頭ずつ仕留めて帰陣した。直利は仕留められなかった悔しさからその場に残っていたところ、再び虎が現れ飛びかかってきたので、愛用の槍で虎の口をめがけて槍を突き刺し見事に仕留めた。この槍は帰国後修理され、銘も書き加えられ、長政によって「虎衝(とらつき)」と命名された。

また、直利は朝鮮の戦争孤児の少女を連れ帰って養育したことでも知られ、妙清地蔵(朝鮮地蔵)として今も林家の菩提寺の金龍寺に祭られている。

関ヶ原の戦いでは合渡川で倒した敵の刀の切先が鍔の透を抜けて怪我をしたため、以後そのような鍔は使わないよう家訓とした。

後の名古屋城の天下普請で城中最大の石を運び、この功で松平(結城)秀康の母方、永見志摩守の女を妻にした。晩年は掃部守を名乗った。

現在、福岡城跡の一角に残る「名島門」は小早川秀秋の居城名島城の遺構で、直利に屋敷門として下されたものである。二階建ての表門は林家のみに許された特権であった。

 

20.原弥左衛門種良(たねよし) 弘治3年(1557)~寛永16年(1639)

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種良は筑前の名族原田氏の一族である。室町時代の足利直冬の時に、豊前国宝珠山に領地を与えられて分かれた支族で、姓を宝珠山と改めた。

父は香春(かわら)(だけ)城主であったが戦乱で領地を失ったため、種良は官兵衛に救援を求めた。官兵衛は秀吉の九州平定後種良を三百石で召し抱え、姓も改め原弥左衛門と名乗らせた。

第一回城井城攻めで長政が敗北した時、しんがりを勤めて馬を泥田に落としたが、日ごろ無口な種良は大胆にも歌を唄い、あっけにとられた敵を尻目に馬を引き上げ悠々と帰陣したという。その後の神楽山城の攻防では三百五十人で桐山信行らとともに神楽山城を守った。

朝鮮の役でもよく戦い、九州関ヶ原の戦いでは官兵衛に従って豊後国安岐城攻めに一番駆けした。

筑前入国後は二千石を拝領し、忠之の命で伊予守を名乗った。黒田騒動後は栗山利安の領地の中心部を任された。和歌をよくし、連歌の名人であったとも言われる。

 

21.堀平右衛門定則  弘治3年(1557)~寛永13年(1636)

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定則は播磨の生まれで、幼名は久七という。はじめは黒田の家臣住江すみのえ茂右衛門の従卒であったが、官兵衛によって士分に取り立てられ、明石久七と名乗って百石を拝領した。

文禄の役では先手の足軽大将を務め、金海城の一番乗りなどその戦いぶりは毎度人の目を奪った。しかし、久七の性格は剛情で、一度言い出したら曲げることはなかった。ある時古参の重臣達と口論になり長政に謹慎を命じられた。年長者を立てるというのが家中の決まりであった。

晋州城の戦いでは一番乗りをかけて加藤清正の家臣と後藤又兵衛がもめている間を縫って一番乗りを果たし、その功により許されて五百石に加増された。また、濠ぎわ、塀ぎわでの活躍が目立ったことから、名も堀平右衛門と改めた。

関ヶ原の戦いの前哨戦である合渡川の戦いでは、泥田に落ちた長政に自分の馬を提供し、自分は林直利の家人の馬を横取りした。

筑前入国後、二千六百石を拝領した。さらに、長政の三男長興(ながおき)の秋月分封に際して五千石に加増されて家老となり、秋月藩のために尽力した。しかし、傍若無人な振る舞いと大口を嫌われて脱藩し、小田原城主稲葉正勝に仕え三千石を拝領した。小田原藩では箱根関所の総番頭を勤め、旧藩主黒田興が通過する際には裃を着て両手をつき、行列が見えなくなるまで額づいていたという。

しかし、正勝没後に二代目藩主正則に手討ちにされるという悲劇的な最期を遂げた。

 

22.衣笠久右衛門景延(かげのぶ)  天文21年(1552)~寛永8年(1631)

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衣笠氏は関東発祥の鎌倉御家人の子孫で、代々播磨国明石郡はしたに城主である。景延は最後の城主範景の弟で、御着城主小寺家に仕えていたが、与力として黒田家臣となった。

播磨国英賀で栗山利安が敵を深追いして窮地に立った時、捕らえた馬に乗せてかろうじて助けた。また、御着城主小寺(まさ)(もと)滅亡後に旧恩に報いるため、官兵衛が息子(うじ)(もと)を呼び寄せた際、景延が使者となって備後国鞆ノ津まで迎えに行った。武勇だけでなく、智謀才覚にも秀でていた景延はその後も活躍を続けた。

豊前一揆の際は、姫隈城攻めで井上之房、黒田一成らとともに猛攻し、城主日熊直次を降伏させた。

朝鮮の役では後藤又兵衛とともに先手を務め、又兵衛に引けを取らない活躍を見せた。また、梁山城に籠城した時は官兵衛とともに千五百の兵で戦い、四千の明軍を撃退した。

九州関ヶ原の戦いでは豊前国苅田(かんだ)の松山城を百五十ほどの兵とともに守った。

筑前入国後は三千石を拝領し、中老並みの待遇を受け、晩年は因幡守を名乗った。文武両道に通じ、(ぼく)(さい)と号して和歌にも優れていた。

 

23.毛屋主水(もんど)武久  天文23年(1554)~寛永5年(1628)

23s

武久は近江国神崎に生まれ、十六歳で和田(これ)(まさ)に仕え、以後六角(よし)(すけ)、山崎片家、柴田勝家、さらに前田利家、池田信輝、佐々(さっさ)成政と主を変え、肥後国へ移った。

播磨国の三木城攻めの時は山崎家家臣として蒲生氏郷の窮地を救った。また、勝家の元では長篠の戦いで戦功を挙げ、越前国永平寺の近くの毛屋でも戦功を挙げた。この時勝家の命により毛屋主水と改名し、三千石を拝領した。その後、成政に仕え、成政が肥後の土豪一揆の鎮圧に失敗して秀吉から切腹を命じられると豊前国で黒田家に三百石で召抱えられた。

蒲生氏郷が会津九十二万石の大大名になり、武久を一万石で招こうとした時、それでは義理が立たないと断った。

慶長の役に参加し、稷山の戦いでは長篠の戦いでの経験から味方は少数であっても敵に討って出るよう進言し明の大軍を撃退した。また、蔚山の戦いでは明軍の動きを偵察し兵糧が少なく退却の動きがあることを見抜いて攻撃を進言し、敵を撃退した。

関ヶ原の戦いでは長政の元で旗奉行を勤めた。合戦の当日、徳川家康に物見を報告する機会があり、敵は精々二万、島津、小西、石田の他は動かないと述べ、家康を感服させた。喜んだ家康は手元にあった饅頭を武久に与えたという逸話が残っている。

筑前入国後、七百石を拝領し、晩年は武蔵守を名乗った。

 

24.井口兵助吉次  永禄8年(1565)~元和7年(1621)

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井口氏は播磨国加古郡井ノ口に興った赤松氏の分系である。吉次の父は戦いを嫌って御着城主小寺氏を頼り同地で帰農していたが、吉次は三人の兄達とともに官兵衛に出仕した。吉次は当時長浜城に人質として送られていた長政に近習していたが、兄達は播磨での戦いで全員討死した。

一人前になることを急いでいた武久は小牧・長久手の戦いでの岸和田の陣では敵の武具、刀槍、馬などまでも奪い、戦いに臨んだと言われる。

豊前入国後に二百石を拝領した。このままでは井口家が絶えてしまうと考えた官兵衛は武久を宇佐八幡宮に養子入りさせようとしたが、吉次はこれを拒み、朝鮮の役に従軍した。

蔚山城の戦いでは首七級を挙げ、朱塗りの槍と朱具足を許された。朱は貴人の色であり、遠目にも目立つため、他藩に見られても恥ずかしくない勇者にしか許されなかった。

九州関ヶ原の戦いでは官兵衛に従った。鍋島直茂を訪ねた時、家臣に無傷の猛将がいると聞き、その村田姓を譲られた。

筑前入国後は二千石を拝領、甘木宿の代官を勤めた。その仕置きは強引であったといい、徳川家の築城を手伝った時もしばしば争いを起したと伝えられている。晩年は村田出羽守を名乗った。

 

参考文献

1)本山一城「黒田軍団」宮帯出版社 平成20年
2)本山一城「播磨の黒田官兵衛」本山プロダクション 平成16年
3)川崎昭二・福岡古文書を読む会校訂「新訂黒田家譜 第一巻」文献出版 昭和58年