黒田二十四騎の成立

黒田二十四騎とは黒田官兵衛、長政親子を支えた24人の家臣である。福岡藩では3代藩主光之の時代に武断主義から文治主義への政策転換がなされ、黒田家の基礎を築いた官兵衛、長政らの先祖とその家臣たちを顕彰する機運が生まれ、貝原益軒らにより「黒田家譜」、「黒田家臣伝」が編纂された。「黒田家譜」は黒田家の公式歴史書であり、黒田家の発祥から官兵衛、長政、家臣たちの働きを世代ごとに記録しており、光之の命により貝原益軒が貞享4年(1687)に編纂した貞享本から3度の改訂を経て宝永元年(1764)に完成した。また、「黒田家臣伝」は黒田家に功績があった家臣27名の略伝を記したもので、「黒田家譜」の編纂に伴って作成されたと考えられている。

このような先祖顕彰の流れを受けて「黒田家臣伝」などを参考に24人が選定され、黒田二十四騎が知られ、藩内に定着するようになったと考えられる。ちなみに、二十四騎は「黒田家臣伝」の中に16名の名前が見られるが、官兵衛の弟3人を含め8人の家臣は「黒田家臣伝」には見られない。現在、最も古い「黒田二十四騎図」としては4代藩主綱政に仕えた狩野昌運が描いたものが知られており、元禄時代(1688~1704)には描かれていたと考えられている。また、作成年月が明記されているものでは、6代藩主継高時代の享保19年(1734)5月の銘がある土生清俊が描いた白描の二十四騎図が最も古い。福岡藩では二十四騎の一人原種良の子孫である原種次が元文4年(1739)に描いた二十四騎図が最も古いとの伝承があったが、現在ではこれよりも古いものが確認されたことになる。これ以降多くの二十四騎図が描かれているが、これらの二十四騎図では、武将の配置は最初に狩野昌運が描いたものが後の時代までほぼ継承され、高位の武将が上位に描かれていることが分かる。ちなみに、10代藩主斉清は先祖の顕彰に熱心で、享和2年(1802)御着に黒田家廟所を造営したほか、文化7年(1810)には二十四騎の画像調査と詳細な二十四騎図の制作を御用絵師の尾形洞谷に命じ、「黒田二十四騎画帖」が描かれた。この画帖は極力想像を排し、当時知り得た情報を盛り込んで描かれた精密な二十四騎図である。以下の二十四騎各武将の説明に使用している画像はこの画帖に依っている。

黒田二十四騎がどのような基準で選定されたか、またなぜ二十四騎なのかについてはまだよく分かっていない。黒田二十四騎図は武田信玄の「武田二十四将図」に倣って描かれたとも言われているが、詳細は不明である。二十四騎が活躍した時代を見ると、全員が活躍しているのは天正15年(1587)の九州攻めから文禄元年(1592)の朝鮮出兵の頃である。また、出身地別で見ると24人中18人が播磨出身である。ただ、慶長年間の黒田藩の分限帳で二十四騎よりも石高が高い播磨出身の家臣が選ばれていない例があり、また「黒田家臣伝」に略伝が紹介されながら選ばれず、逆に「黒田家臣伝」に掲載されていない8人が選ばれるなど、選定の基準はよく分かっていない。

いずれにしても、江戸時代中期に黒田二十四騎図に描かれた二十四騎は、その後多くの画像や絵馬が制作され、北九州市の春日神社にも祀られるなどして福岡藩領内に広く知られ、現在に至っている。

黒田二十四騎図(1734年)土生清俊画 福岡市博物館蔵

黒田二十四騎図(19世紀)尾形探香画 福岡市博物館蔵