ゆかりの地(石垣山一夜城跡)

石垣山一夜城跡

(JR東海道線早川駅から徒歩約50分、駐車場あり)

天下統一を目指す秀吉は天正17年11月23日、小田原城の北条氏を攻めることを決め、翌18年4月3日には総勢約21万の軍勢で陸海から小田原城を包囲し、兵糧攻めを開始します。そして小田原城西方約3kmの笠掛山に総石垣の城を築き、本陣を箱根湯本の早雲寺から移し、北条氏に圧力を加えます。築城には約80日を要し、6月26日には完成しましたが、小田原城側の樹木を完成と同時に切り倒し、一夜にして城が姿を現したため、一夜城と呼ばれるようになったと言われています。北条方の将兵は今まで見たこともない総石垣の城の姿を見ていよいよ戦意を失い、ここに官兵衛の説得が功を奏し、北条氏は7月5日、籠城約100日で遂に開城し、秀吉の天下統一が達成されました。

豊臣方の布陣

豊臣方の布陣

一夜城は本丸、天守台、二の丸(馬屋曲輪)、西曲輪、南曲輪、井戸曲輪などからなっており、石垣は関東大震災で被害を受けたとはいえ、小田原藩の管理の元で長らく立ち入りが制限されたこともあって往時の姿をよく残しており、国の史跡に指定され、現在は「石垣山一夜城歴史公園」として整備されて容易に城跡を巡ることができます。

この歴史公園の南には広い駐車場があり、駐車場北側にある入口を入るとまず南曲輪の石垣が見えます。南曲輪の石垣は一部崩れたところがありますが、高さは20m余りもあり、想像以上に高い石垣です。左手に石垣を見ながらゆるやかな歩道を登ると、すぐに広い芝生の広場に出ます。ここが二の丸で、馬屋曲輪とも呼ばれ、本丸とともに城中で最も広い曲輪で、西側に本丸の石垣が見えます。本丸に登ると西側の一段高いところが天守台で、標高261mあり、一夜城で最も高いところです。また、本丸の南端には物見台があり、ここからは小田原城と城下、相模湾が眼下に手に取るように見え、小田原城攻めの時もこのように見えていたのかと当時の状況が偲ばれます。さらに二の丸に降りて東に向かうとすり鉢状の井戸曲輪が見え、往時の石垣の姿がほぼ完全に残っています。井戸曲輪はその名の通り、井戸がある曲輪で、谷の部分を塞ぎ、すり鉢の部分に石垣を巡らせた珍しい形の曲輪で、すり鉢の底にある井戸は現在も水が湛えられています。秀吉は一夜城で千利休らを招いて茶会を催しており、この井戸の水を使用したと言われています。また、淀殿も一夜城に招かれており、この井戸の水で化粧をしたとも言われています。そしてこれらの石垣に使用された石は近くで採石されたものであり、石垣は近江の穴太衆によって築かれたと考えられています。

南曲輪石垣

南曲輪石垣

二の丸跡と本丸石垣

二の丸跡と本丸石垣

本丸跡と天守台

本丸跡と天守台

物見台からの眺望

物見台からの眺望

井戸曲輪石垣

井戸曲輪石垣

官兵衛が小田原城攻めに参陣したことは、当時の陣立を記録した「小田原陣陣立」、各武将の配置を示した「小田原陣仕寄陣取図」に官兵衛の名前が見え、開城後に秀吉が長政に宛てた書状にも官兵衛の功績を称賛する内容が記され、北条氏から官兵衛に贈られた鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」、刀剣「日光一文字」、ほら貝「北条白貝」と言った家宝が現存することから明らかですが、官兵衛は北条氏に降伏を説得しただけではありません。官兵衛は小田原攻めの前までに、姫路城、大坂城、中津城の築城に関わっており、小田原に参陣した武将の中にこれほどの築城経験を持った武将が他にいないこと、またこの後官兵衛が築城に関わった名護屋城と縄張りがよく似ていると指摘されていることから、官兵衛は城地の選定、縄張りから石垣構築を含めて一夜城の築城にも深く関わったと考えられています。