ゆかりの地(中四国地方)

小豆島町の大坂城石垣石切岩谷丁場跡

小豆島の東海岸、国道436号線沿いの小豆島町岩谷地区に「大坂城石垣石切岩谷丁場跡」が残されています。この場所は、江戸時代初期、徳川幕府が大坂城を再建した折、石垣普請を割り当てられた福岡藩黒田家が採石した丁場で、大坂城築城を支えた史実を物語っており、現在も400年前の姿がほぼ完全な形で残っています。昭和47年(1972)に石切丁場としては、初めて国史跡に指定され、平成24年(2012)には、小豆島町により代表的な丁場である天狗岩丁場に新しい遊歩道が整備されました。

徳川幕府の二代将軍徳川秀忠は、西日本支配の要として、元和5年(1619)に新たな大坂城の築城を決定します。秀忠は、第1期の石垣築造にあたり、西日本の外様大名を中心に47家へ天下普請を命じ、福岡藩主黒田長政もこれに加わり、この丁場は長政の命により拓かれたものと考えられます。小豆島に石切丁場が拓かれた理由については、幕府の天領であり他藩の許可が不要であること、良質の花崗岩が採取できること、丁場から海岸までの距離が近く、また海岸が砂浜であり運搬、船積みに便利であったことなどが考えられます。大坂城の天下普請は、その後寛永元年(1624)には第2期工事として59家、寛永5年(1628)には第3期工事として57家の大名に命じられ、福岡藩では2代藩主忠之がこれに加わり、大名家を束ねる組頭を務めています。黒田家の丁場としては、現在6か所の石切丁場が残っており、ここでは代表的な丁場である天狗岩丁場、八人石丁場と番屋跡を紹介します。

天狗岩丁場は、国道沿いの遊歩道入り口から少し山を登ったところにあります。丁場に足を踏み入れると、見上げるほど大きな花崗岩の種石(大天狗岩)がそびえ、この丁場の名前の由来になっています。大天狗岩は、高さ17.3m、幅7.8m、奥行12.3mもある巨石で、総重量は約1,700tと推定されています。天狗岩丁場には生々しい矢穴の跡が残った種石や切石が随所にみられ、中には黒田家採石の証となる刻印が打たれた巨石が横たわり、その総数は666個に上ります。ノミで矢穴を穿ち、刻印の印された残石が佇む光景を目の当たりにすると、今から約400年前、確かにこの場所が黒田家の大規模な石切丁場であったことを実感できます。

大天狗岩(全景)

大天狗岩(全景)

天狗岩丁場(自然石 石切り)

天狗岩丁場(自然石 石切り)

天狗岩丁場(自然石 矢穴)

天狗岩丁場(自然石 矢穴)

天狗岩丁場(切石 刻印)

天狗岩丁場(切石 刻印)

八人石丁場は、石切りの作業中、不意に倒れた巨石の下敷きになって8人の石工が命を落としたと伝わる丁場で、八人石の横には、石工を供養するための五輪塔が建てられており、往時の石切り作業の危険性を物語っています。また、この丁場にも海岸に至るまでの山中に数百個の残石が確認されており、海中にも矢穴や刻印が印された巨石を見ることができます。

八人石丁場(八人石)

八人石丁場(八人石)

八人石丁場(供養塔)

八人石丁場(供養塔)

番屋跡は、播磨灘を見下ろす場所にあり、大坂城の石垣普請が終了した後も福岡藩は家臣七兵衛に丁場の管理を行わせ、子孫は明治維新に至るまでその任に当たりました。他藩の石切丁場が荒廃する中で黒田家の丁場が今なお往時の姿を残しているのは、福岡藩の十分な管理とこれを受けた地元の保護に負うところが大きいと言えます。その黒田家の先見の明と文化的価値が評価され、この番屋跡は番屋七兵衛屋敷跡として昭和45年(1970)に香川県から県史跡に指定されました。福岡藩が石切丁場の保護を続けた背景には、幕府への忠誠と将来の普請に備えるためであったと言われています。興味深い史実として、黒田家の幕末期の家臣の名前、役職などを記した慶応分限帳には、小豆島在住の與右ヱ門と七兵衛の両人が石番を勤め、扶持を与えられていたことが記されており、明治維新に至るまで大切に守られていたことを伝えています。

番屋跡

番屋跡

なお、天狗岩丁場の詳細、アクセスについては小豆島町作成の天狗岩丁場探訪マップをご覧ください。