ゆかりの地(妻鹿地域)

妻鹿地域は姫路市の臨海部に位置し、海上交通の利便性を重視する黒田家にとって重要な地域です。妻鹿地域のゆかりの地として、特に職隆と縁が深い国府山城跡と職隆廟所を紹介します。

国府山城跡(山陽電鉄「妻鹿駅」下車徒歩約25分)

国府山城跡は市川河口近くの標高98mの甲山にあり、妻鹿駅から市川の堤防を北へ10分ほど歩くと麓の荒神社に、ここから雑木林の山道を15分ほど登ると山頂に着きます。甲山の西側は市川に接しており、西側から北側にかけての斜面は急峻であるのに対し、南側、東側の斜面は比較的緩やかです。山頂からは北に姫路城と姫路平野一帯、南側には瀬戸内海を望むことができ、敵の動向を監視するのに絶好の場所です。また、国府山城の南の旧妻鹿村一帯は、北には甲山、東には御旅山があり、南は瀬戸内海、西は市川に囲まれた要害の地と言えます。甲山は播磨の国府があった場所の真南に位置するため、国府山とも言われており、国府山城は功山城、妻鹿城などの別称があります。

「飾磨郡誌」によれば、甲山には鎌倉時代末期の元弘年間(1331~1333年)に妻鹿孫三郎長宗が居城し、赤松家に従って軍功を挙げ、子孫は室町中期の文正年間(1466年ごろ)に妻鹿氏を称し妻鹿村に居住したとされています。また、官兵衛の父職隆が天正元年(1573)に城を築いて移り、天正8年(1580)に官兵衛も姫路城を秀吉に譲り国府山城に移ったとの説、天正8年(1580)に官兵衛が職隆とともに国府山城に移ったとの説がありますが、定かではありません。

地元の功山城跡調査会などの調査によれば、城跡として山頂付近に主郭、これに続く尾根上に20数か所の曲輪があり、礎石建物跡、井戸跡、庭園跡とみられるところが残っています。また、これらの曲輪からは中国製青花磁器、備前焼擂鉢、備前焼甕、宋銭、平瓦などが発見されており、山上で相応の生活が営まれていた痕跡が残っています。さらに「姫路御古墓記」には、小寺美濃守(職隆)の名前が入った瓦が山上で発見され、職隆廟所建設の時に福岡に持ち帰られ、藩に差し出されたとの記録がありますが、現在の所在は不明です。

また、「飾磨郡誌」によれば、城跡の規模は長さ95間(約171m)、幅11間(約20m)あり、山頂付近に城の辻と呼ばれる平地があり、この西側に一の段、東側に二の段、さらに局屋敷とよばれる平地、馬掛けとよばれる細長い平地があると言われています。さらに、甲山の南山麓には馬つなぎと称される場所、甲山から妻鹿に通ずるところに門口町と称されるところがあり、これらは甲山に城があった名残りと考えられています。

甲山に城郭があったことはほぼ確かですが、職隆、官兵衛が国府山城に居城したことを示す史料は見つかっておらず、居城した年月も明らかではありません。ただ、天正年間に菩提寺の心光寺が旧地の印南郡佐土から市川西岸の阿成に移っていること、職隆の父重隆が妻鹿氏を娶っていること、また職隆の廟所が妻鹿にあることから、黒田家と妻鹿との縁は深かったと考えられます。

甲山全景

甲山全景

甲山より姫路市街を望む

甲山より姫路市街を望む

甲山より妻鹿を望む

甲山より妻鹿を望む

 

黒田職隆廟所(山陽電鉄「妻鹿駅」下車徒歩約10分)

黒田職隆廟所は官兵衛の父職隆の墓所で、国府山城南方約800mの住宅地の小高い築山の上にあります。廟所は東西約12m、南北約15mで、石塀と玉垣が巡らされた廟屋には高さ2m余りの五輪塔が祀られています。五輪塔は表面の風化が激しいものの、江戸時代の発見時は、最下段の地輪の正面には「満誉宗圓大禅定門 天正十三年八月廿二日」、側面には「黒田」と刻まれており、天正13年(1585)に国府山城で亡くなったと言われる黒田職隆の法名と没年月日を表しています。

職隆の墓所は天明4年(1784)に福岡藩により現在のような廟所に造られました。発見の経緯、廟所建設の詳細については、工事の責任者として福岡藩から派遣された山本喜右衛門が工事報告書としてとりまとめた「姫路御古墓記」、喜右衛門のもとで工事に従事した山口武乕が著した「播磨国飾東郡妻鹿村御塔之記」、武乕の書を編集した「播磨古事」に記録され、播磨学研究所により翻刻、解説されており、以下にその概要を紹介します。

天明3年(1783)に妻鹿村の百姓長兵衛が国府山御城主塚と伝わる墓所を発見し、付き合いがあった心光寺住職入誉に連絡しました。入誉は姫路藩の了解を得て墓所を調査し、上記のような五輪塔の法号と日付が心光寺の位牌と同じであることを確認し、10月にこれを福岡藩に連絡しました。福岡藩は早速12月に藩士2人を姫路に派遣して調査させ、その報告を受けて廟所建設の準備に取り掛かりました。

廟所の建設は翌天明4年8月22日に山本喜右衛門一行が姫路に到着し、心光寺での職隆二百回忌の法要に参列して始まりました。工事着手前の墓所の様子は、松の大木に囲まれた竹の菱垣の中に板で覆いをされた五輪塔があったと記録されています。工事では、まず五輪塔は取り下ろして洗い、銘文は清掃して金箔を入れ、五輪塔の下に赤土を入れて組み立て直し、漆喰で塗り上げました。この過程で棺瓶が見つかりましたので、掘り出して石蓋を新しく作り、元のように小石を入れて四方を突き固め、赤土、石灰などで堅固に埋戻して縁石で取り囲みました。この後、廟屋を欅材で建てて瓦葺とし、銅の戸樋を取り付けました。

廟屋が完成すると次に玉垣を巡らせて石灯篭を据えました。これらの工事用材料は福岡で調達、加工して廟所まで運び、作業も福岡の大工、石工などの職人が行いました。この他、玉垣の外側に高砂の竜山石で練り塀を築き、欅材で表門を作り屋根は瓦葺きとしました。さらに表門の正面には広場と西からの参道の土地を買い上げ、これらを整備するなどして工事は11月22日に終わり、心光寺により廟所完成の供養が行われました。

福岡藩の慶応分限帳によれば、天明4年8月以降、福岡藩は毎年心光寺に供養料として米70俵と銀35枚を奉納しており、心光寺に廟所の維持管理を委ね、大切にしていたと考えられます。廟所はその後老朽化が進み台風の被害を受けたため、昭和52年(1977)妻鹿町自治会が浄財を集め、新たに建設されました。平成26年1月に姫路市史跡に指定され、地元では「チクゼンさん」と呼ばれ、現在も妻鹿町自治会により維持されています。

職隆廟所全景

職隆廟所全景

IMG_1271

職高廟

職隆廟所図 「姫路御古墓記」(福岡市総合図書館所蔵)より

職隆廟所図 「姫路御古墓記」(福岡市総合図書館所蔵)より