ゆかりの地(姫路地域)

姫路地域は重隆、職隆、官兵衛が姫路城主として過ごし、黒田家とのつながりが強い地域です。姫路市中心部とその周辺には多くのゆかりの地がありますが、その中で姫路城、播磨国総社を紹介します。

姫路城(JR・山陽電鉄「姫路駅」下車徒歩約20分)

戦国時代の末期、黒田重隆、職隆、官兵衛の3代が姫路城主となった時期がありました。その頃の姫路城は小寺氏が本拠地とした御着城の出城であり、館のような建物であったと言われています。

官兵衛は天正3年(1575)に主君小寺政職に織田信長への帰順を決意させ、政職の使者として岐阜城に赴き、政職は信長に属しました。これを受けて天正5年(1577)には羽柴秀吉が播磨攻めに派遣され、官兵衛は姫路城に秀吉を迎えます。福岡藩黒田家の歴史書「黒田家譜」には官兵衛は秀吉に本丸を明け渡し、二の丸に住んだ旨が記されています。

この後本格的に播磨攻めが行われ、天正8年(1580)には三木城、英賀城、長水山城が落城し播磨は平定されました。この時、秀吉は守りが堅い三木に本拠地を置こうとしましたが、官兵衛の勧めにより姫路を中国攻めの根拠地とし、官兵衛は姫路城を秀吉に譲り、自らは父職隆とともに妻鹿国府山城に移ったとされています。そして秀吉は新たな姫路城の築城に取り掛かり、天正9年(1581)3月ごろには三層の天守閣を持つ姫路城が完成しました。姫路城は当時としては大規模なもので、細川幽斎は天正15年(1587)九州攻めに赴いた時の紀行文で、船上から姫路城が見えたと記しています。

姫路市立城郭研究室の研究によれば、秀吉の姫路城の石垣は現在の天守閣、備前丸、上山里曲輪を取り囲むように築かれ、姫路城の天守閣周辺の石垣の主要部分はこの時に築造されたと考えられています。これらの石垣は野面積みと呼ばれる古式の石垣で、上山里曲輪下段、菱の門の東方、二の丸北方、北側の原始林などで見ることができます。また、昭和の姫路城解体修理の際には現在の天守台の地下から秀吉時代の一回り小さな天守台の石垣、礎石が発見され、これにより秀吉時代に天守閣が築かれていたことが確認できたとされています。

野面積み石垣は自然石を積み上げた石垣で、高さは通常は数m程度で、石垣を高くする時には後方に控えて別の石垣を積んで二段積みとします。上山里曲輪下段の石垣は二段積みの例で、中央部には天正期の特徴である隅角が鈍角になったシノギ積が見られます。また、菱の門東方には巨石を使用した野面積み石垣があります。さらに、菱の門を入ると、二の丸北方にはアーチ型の輪取りが顕著な野面積み石垣もあります。この石垣は平面形状が内側に曲線を描いており、高さは約12mあり、通常見られる野面積み石垣の約2倍程度の高さになっており、全国の城郭の中でも珍しい野面積み石垣です。

そして、これら秀吉時代の石垣の築造に官兵衛が関わっていると考えられ、これを示す書状が福岡市立博物館所蔵の「黒田家文書」に2通残っています。福岡市立博物館の研究によれば、いずれも秀吉が官兵衛に宛てた書状で、1通は天正8年(1580)7月24日付けで、官兵衛に内々に姫路城の普請の準備を行うように命じています。もう1通は築城が最終段階を迎えた天正9年(1581)年2月6日付けで、官兵衛に姫路城の普請を油断なくしっかり行うことを命じています。普請とは通常の場合土木工事を指しており、また書状から官兵衛は秀吉の命令を直接受ける責任者の立場にあったことが分かり、官兵衛は石垣、堀などの土木工事の責任者であったと考えられます。

秀吉の姫路城は播磨で初めての天守閣を持った城で、安土城築城後に着手され、1年ほどで完成しました。このような大規模な土木工事を短期間で成し遂げる責任者には、多量の石材を調達し、大勢の石積み職人、人夫を集めて指揮、監督する能力のほか、姫路城の地形、地盤なども熟知している必要があります。これらから、姫路城主としてこの地に住み、播磨平定で秀吉の信任を得ていた官兵衛は工事責任者として最も相応しい人物であり、秀吉時代の野面積み石垣は官兵衛が深く関わった石垣と考えられます。そして天正11年(1583)9月から始まった大坂城の天下普請では、官兵衛は石垣普請を担当しており、秀吉が官兵衛に宛てた石材の調達、運搬などについての掟書が残っています。安土城から本格的に始まった高石垣の城郭は、姫路城を経て大坂城さらに全国の城郭へ受け継がれ、官兵衛は築城の名手と呼ばれるようになりました。

秀吉築城の姫路城天守閣(三層)推定復元模型・姫路城管理事務所提供

秀吉築城の姫路城天守閣(三層)推定復元模型・姫路城管理事務所提供

姫路城内曲輪石垣配置・姫路市立城郭研究室「姫路城の基礎知識」より編集

姫路城内曲輪石垣配置・姫路市立城郭研究室「姫路城の基礎知識」より編集

秀吉時代の天守台石垣および礎石  「姫路城昭和の修理工事報告書」より 姫路市立城郭研究室提供

秀吉時代の天守台石垣および礎石 「姫路城昭和の修理工事報告書」より 姫路市立城郭研究室提供

上山里曲輪下段:二段積みのシノギ積み野面石垣

上山里曲輪下段:二段積みのシノギ積み野面石垣

菱の門東方:姫路城を代表する巨石積み野面石垣  野面石垣

菱の門東方:姫路城を代表する巨石積み野面石垣

二の丸北方:特徴的なアーチ型の輪取り野面石垣

二の丸北方:特徴的なアーチ型の輪取り野面石垣

秀吉が黒田官兵衛に姫路城の普請の準備を命じた書状 黒田家文書(福岡市博物館所蔵)

秀吉が黒田官兵衛に姫路城の普請の準備を命じた書状 黒田家文書(福岡市博物館所蔵)

秀吉が黒田官兵衛に姫路城の入念な普請を命じた書状 黒田家文書(福岡市博物館所蔵)

秀吉が黒田官兵衛に姫路城の入念な普請を命じた書状 黒田家文書(福岡市博物館所蔵)


播磨国総社(JR・山陽電鉄「姫路駅」下車徒歩約15分)

播磨国総社はその名前のように播磨国内の174座の神々を合わせ祀っており、姫路城の東南、旧中濠の内側に鎮座しています。正式名は「射楯兵主(いたてひょうず)神社」と言い、主祭神は射楯大神と兵主大神の二座で、「総社伊和大明神」と呼ばれた時期もあります。平安初期の延喜式神名帳(927年)に「射楯兵主神社二座」と記載されている式内社で、その起源は奈良時代以前に遡るとされ、播磨国風土記にも伊太代の神(射楯の神)と記されています。境内は播磨国府跡とされる地に隣接しており、国府と密接な関係を持った神社として古代には国司が種々の祭祀を行ったと考えられており、中世には播磨の守護大名赤松氏はじめとする有力領主から崇敬を受けていました。黒田家との関わりも深く、「射楯兵主神社史」(射楯兵主神社史編纂委員会編)には永禄10年(1567)9月黒田官兵衛の父職隆は老朽化していた拝殿、神前御門を板葺から瓦葺に葺き替えて再建し、また天正5年(1577)6月の一ツ山祭は職隆によって執り行なわれた旨が記されています。

天正8年(1580)播磨が平定されると、同年9月1日官兵衛は秀吉から播磨国揖東郡で1万石を与えられました。黒田家の歴史書「黒田家譜」の首巻には黒田家の旗印についての記述があります。これによれば、秀吉は官兵衛に1万石を与えた時、以後戦場で黒田家の旗を立てるよう命じました。そこで官兵衛は職隆と相談し、黒田家の祖とされる佐々木氏の旗を基に、上下を黒く中を白くした旗と吹貫の大馬幟を制定しました。旗は練絹製で長さが一丈(約3.0m)余りあり、旗竿の先端に長さ三尺(約0.9m)ほどの小旗を付けました。大馬幟は絹製で輪の直径が五尺(約1.5m)、長さは二間(約3.6m)あり、根元から半分までは縫い合わされ残り半分は九条に分かれています。

旗が仕立て上がると、職隆は地元の氏神である総社で御神体を勧請するのがよかろうと勧め、官兵衛はこの勧めに従って7日間祭礼を催し祈祷を行い、職隆、官兵衛父子はこの間毎日参詣しました。祭礼の7日目には神前の右側に旗6流を、左側に吹貫の大馬幟を立て、神前にお神酒を、旗、大馬幟にも酒を1本ずつ供え、祭礼の仕上げには官兵衛、職隆、参列した家臣たちがお神酒をいただいたと記されています。

黒田家の旗、大馬幟はこの後寸法などが多少変更されるものの黒田軍の象徴となり、中国攻め、九州攻め、朝鮮の役、関ヶ原の戦いなど数々の戦いで勝利を収め、旗は中白の旗と呼ばれるようになりました。旗は戦場において兵の進退を指揮する重要なものであり、初代の旗奉行には戦況判断に優れた竹森新右衛門が選ばれ、後に黒田二十四騎の一人に数えられました。旗、大馬幟の元で黒田軍が戦う様子は関ヶ原戦陣図屏風などの合戦図屏風、合戦図絵巻に描かれ、現在に残っています。黒田軍の武運は官兵衛、長政の功績とは言いながら、黒田家、家中では旗、大馬幟のご加護、ひいては総社の神霊のご加護が大きいと信じられています。

総社は天正9年(1581)秀吉が姫路城を築城した時、現在地の北約500mの地から現在地に移転遷座されました。天正12年(1584)官兵衛は総社に制札を与えて保護し、その後の歴代姫路城主も大鳥居など種々の寄進をして保護し、福岡藩も江戸時代後期に寄進しています。福岡藩の文化十四年分限帳(1817年)では銀2枚半、幕末の慶応分限帳では金1両2分を伊和大明神に寄進した記録があり、福岡藩が総社に対して黒田家ゆかりの神社として崇敬の念を持ち続けていたことがうかがえます。

播磨国総社本殿 播磨国総社提供

播磨国総社本殿 播磨国総社提供

(左)中白の旗と吹貫の大幟・(右)関ヶ原戦陣図屏風での黒田軍旗 福岡市博物館所蔵

(左)中白の旗と吹貫の大幟・(右)関ヶ原戦陣図屏風での黒田軍旗
福岡市博物館所蔵