ゆかりの地(御着地域)

御着地域は黒田重隆、職隆、官兵衛の3代が主君小寺家に仕え、飛躍した場所です。御着とその周辺にはゆかりの地が多くありますが、その中で、御着城、黒田家廟所、小寺大明神をご紹介します。

御着城跡(JR「御着駅」下車徒歩約10分)

御着城は戦国時代後期に中播磨で最大の勢力を誇り、守護大名赤松氏の一族でもあった小寺氏の居城で、通説では永正16年(1519)に小寺政隆が築城したと言われ、以後則職、政職と受け継がれました。官兵衛は御着城で政職に近習として仕え、永禄10年(1567)22歳の時に父職隆から家督を譲られ、小寺家の家老職を引き継ぎました。天正3年(1575)政職は御着城で官兵衛の勧めにより織田信長の傘下に入ることを決めますが、後に有岡城主荒木村重に同調して信長に反旗を翻します。このため、天正7年(1579)秀吉に攻められて御着城は落城し、その後破却されました。

宝暦5年(1755)に描かれた御着城の絵図によれば、御着城は北と東は四重の堀、西と南は天川を利用した二重の堀で囲まれ、家臣の屋敷、町屋、寺院、神社などを取り込んだ南北約600m、東西約500mに及ぶ惣構の城です。城の中心となる本丸と二ノ丸は茶臼山と呼ばれる高さ約5mの小高い丘に築かれました。また、城の北東に当たる斉藤山には見張所が置かれ、丹波街道から京に通じる志吹の谷、深志野には重臣を配置し敵の侵入に備えました。戦国時代の城は山城が主流で、敵から攻撃されやすい平地にこのような大規模な城を築くことは珍しいことでした。小寺氏は防御を重視しながらも、交通の利便性を重視しており、御着城は近世の平城を先取りした城と言えます。小寺氏のこのような交易、経済を重視する先進的な発想は官兵衛の考え方にも大きな影響を与えたと思われます。

昭和52~54年(1977~1979)に行われた二ノ丸を中心とした御着城の発掘調査では、堀、土塁、井戸、居館跡などの遺構が確認されました。また、大量の瓦とともに中国製の青磁、白磁、国内の備前焼、瀬戸焼をはじめとする陶磁器、漆器、茶道具、銅銭などが出土しました。これらの出土品は現在姫路市埋蔵文化財センターに保存されており、当時の小寺氏の勢力の大きさと豊かな生活ぶりを知ることができます。また、御着城跡を国道2号線が東西に通っており、昭和初期の国道建設工事では本丸跡の掘削工事現場から大量の刀剣類、骨壺が発見されたと伝えられています。

天正7年(1579)の御着城攻めでは、秀吉は北、東からの攻撃は四重の堀があることから難しいと考え、南方の火山に陣を張り、南から一気に山を下って攻めましたが、小寺方の猛反撃に遭い、一旦火山の南東の谷まで退きました。中でも原小五郎の奮戦は目覚ましく、放った矢は秀吉の馬印に命中し、秀吉を感嘆させたと言われています。しかしながら、秀吉の一万の大軍の攻撃は二千ほどの兵では防ぎきれず、翌日の攻撃で御着城は落城し、政職は英賀に逃れました。

現在、国道北側の本丸跡は御着城公園となっており、城を模した姫路市東出張所が建てられ、御着城跡の石碑、黒田官兵衛顕彰碑があります。本丸跡の東側には二ノ丸跡があり、現在はグラウンドになっています。また、御着城跡公園とグラウンドの周辺では堀跡が残っており、往時の御着城の姿をわずかに見ることができます。

 

御着城本丸跡

写真:御着城本丸跡

写真:御着城堀跡

写真:御着城堀跡

御着城地宝暦絵図 宝暦5年(1755)9月  個人蔵・姫路市立城郭研究室寄託

御着城地宝暦絵図 宝暦5年(1755)9月  個人蔵・姫路市立城郭研究室寄託

写真:御着城礎石・暗渠・石垣  姫路市埋蔵文化財センター提供

写真:御着城礎石・暗渠・石垣  姫路市埋蔵文化財センター提供

写真:御着城跡出土白磁小碗(中国製) 姫路市埋蔵文化財センター提供

写真:御着城跡出土白磁小碗(中国製) 姫路市埋蔵文化財センター提供

黒田家廟所(JR「御着駅」下車徒歩約10分)

黒田家廟所は御着城跡公園の西側にあり、廟屋の内部に2基の五輪塔が祀られています。向かって左が官兵衛の祖父とされる黒田重隆、右が母の明石城主明石正風の女のものです。

重隆は永禄7年(1564)、明石氏はその5年前の永禄2年(1559)に亡くなりました。二人の遺骨は御着の東隣の印南郡佐土にあった心光寺に葬られていましたが、天正15年(1587)黒田家ゆかりの御着城跡の現在地に改葬されたと言われています。

心光寺が姫路に移り、黒田家が九州に移った後、墓所は荒廃し所在も分からなくなったようで、福岡藩は墓所の所在を探していました。寛政5年(1793)心光寺住職入誉が現在地に墓所と思われるところがあることを聞き、これを確認して福岡藩に書状で知らせました。入誉が敷地の所有者天川久兵衛、姫路藩寺社奉行の了解を得て調査したところ、2組の石蓋と骨壺があり、それぞれの石蓋の銘の年月は心光寺に奉納されている位牌の年月と同じであることが分かりましたので福岡藩に墓所の確認をお願いしています。

現在の廟所はこれを受けて享和2年(1802)10代藩主斉清の命により福岡藩士喜多村弥次右衛門以下10余名が遣わされ、筑前から材木、石材などを運んで造られたものです。廟屋周りの石塀は高砂の竜山石で造られ、表門の内梁には黒田家の家紋である木彫りの藤巴紋と石餅紋が飾られています。

廟所の完成とともに福岡藩は大庄屋天川家に7人扶持を与えており、その後の廟所の維持管理を委ねたようであり、廟所を大切にしていたことがうかがえます。廟所はその後年月の経過とともに傷みが生じたため、昭和43年(1968)に黒田家により修復されました。また、昭和56年(1981)には姫路市史跡に指定されました。福岡藩黒田家ゆかりの廟所は地元ではチクゼンサンと親しまれ、現在は御着史跡保存会が維持管理をしています。

写真:黒田家廟所

写真:黒田家廟所

小寺大明神(JR「御着駅」下車徒歩約10分)

小寺大明神は天川神社とも呼ばれ、本丸跡の国道2号線南の御国野市民公園にあり、御着城主小寺政隆、則職、政職と天正7年(1579)の御着城攻めで亡くなった人たちを祀っています。南隣には開運繁栄の神である當勝稲荷があり、両社殿は小寺の時代に建てられ、昭和49年に改築されました。小寺大明神と黒田家廟所では、毎年4月29日に各地から小寺家、黒田家、天川家の子孫と関係者が集まり、法要祭典が催されています。

また、小寺大明神の手前には、御着城跡の発掘調査で出土した五輪塔、石仏が集められ、安置されています。

 

写真:小寺大明神

写真:小寺大明神