10 官兵衛の生き方

官兵衛の生き方と人物像

豊かな人間愛

官兵衛が戦いにおいてまず相手に説得を試み、極力力攻めを避けようとした根底には人間愛があり、今は立場の違いから敵味方に分かれているが、お互い同じ人間だから話し合えばわかり合えるはず、との考えがあるように思われる。そのような官兵衛の真摯で誠実な態度に接すると、相手も官兵衛に感服し、説得に応じる決断をする。説得に応じることは負けを意味するが、それは戦いに負けたのではなく、官兵衛の人間性に負けたと思わせるような何かを官兵衛が持っていたようにも思える。官兵衛の説得については資料が残っていないが、その人間性についてはルイス・フロイスの日本史など宣教師が書き残した資料で断片的にうかがうことができる。

戦う場合も敵味方ができるだけ傷つかないように配慮したのも官兵衛の人間愛の表れである。戦いにおいては勝たなければ自分が滅んでしまうが、単に勝てばよいとは思わず勝ち方にこだわり、相手を徹底的にせん滅するのではなく「相手に遺恨を残さない勝ち方」を追求している。北条氏の小田原城攻めの時に、降伏する相手から感謝され、家宝の品々を贈られたのはその典型である。そのような戦いをすると、結果として負けた相手も官兵衛の指揮の下で働くことを望むようになる。まさに、そこには「人は殺すよりも生かして使え」を実践している姿が見える。

限りない知力

また、戦う場合も知力を駆使して常に先を読み、彼我の戦力のバランスを考え、今相手がどんな状況にあり、何を考えており、どう動くかを冷静に考え分析する習慣が身に付いていた。奇襲攻撃を仕掛けたり、旗、幟で大軍を装って威嚇したり、相手を包囲し説得の時期を探る時などがこれに当てはまる。官兵衛が繰り出す多彩な戦術の数々は、まさに生死を決める戦場においても知恵を出すことを楽しんでいるかのように見え、心の余裕すら感じられる。

質素倹約の勧め

官兵衛は私生活でもプライドを持ちながらも質素に暮らし、家臣にも質素倹約を勧め、優しく接したという。「我人にこびず、富貴を求めず」である。そのように蓄えた財はただ蓄えておくだけではなく、勝負どころでは、九州関ヶ原の戦いで中津城で兵を集めたように、蓄えを全部はたくほどの出費もいとわなかった。

官兵衛の人生

官兵衛の人生は、秀吉の天下統一までは秀吉の全幅の信頼を受けて国内各地の戦いで活躍するが、その後はその能力の高さゆえに次第に疎まれ、またキリスト教への迫害、朝鮮出兵などで秀吉との関係がこじれ、次第に「苦悩の人」の色合いが強まって行く。それでも秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いも終わり、嫡男長政が福岡藩52万石の大藩を任されると、気持も次第に和らいでいく。晩年は妻幸圓とともに余生を福岡で過ごし、人生を集大成しながら長政、家臣への教育に力を入れるようになる。そして、これまでの自己の人生に満足し、その最後を次の句で締めくくる。

「おもひおく 言の葉なくてつゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

官兵衛の人物像

以上のような官兵衛の足跡を見ると、従来型の軍師とみるのは官兵衛の全体像の一部であり、作戦、戦略を計画、提案、実行し、時には主君に提案しながら命令を出すかのような官兵衛は、軍師の枠を超えて戦略家、政治家、外交官、技術者、哲学者、教育者などを合わせ持つ人間愛に満ちた稀有な人物であることが分かる。また、多くの戦国武将が滅んでいく中、幕末まで福岡藩を守り抜き、教育にも力を入れて現代まで続く黒田家の基をしっかり築いた官兵衛の業績は比類ないものである。

官兵衛の足跡の中でも特筆されるのは、失敗すれば後がない戦場において、常に作戦を成功させ自軍を勝利に導いた点である。失敗が許されない中で作戦を着想、計画することと実際に作戦をやり遂げ、成果を収めることの間には大きなギャップがあり、よほどの自信がある計画であっても現実にはなかなか実行できるものではない。「官兵衛哲学」とも称される官兵衛の教えはこのような実績に裏付けられているため、深く人の心を打つものになっている。

現代の社会は混迷し、何を基準に生きていくべきかが不明確な時代である。当顕彰会としては、そのような中で多くの方々に官兵衛の人物像、「官兵衛哲学」なるものを理解していただき、少しでも日常生活に活用していただくことを願っている。

 

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