08 優秀な土木技術者

城の縄張りから建設、城攻めのための工作物の建設、城下町の都市計画までを広範囲に行う優秀な土木技術者であった。

姫路城築城と官兵衛道の建設

官兵衛が土木技術者として最初に実績を上げたのは、秀吉の命を受けて中国攻めの拠点にふさわしい姫路城築城の責任者となり、三木から姫路に至る資材運搬道路を新たに建設した時である。播磨攻めの時に破却した御着城、志方城など東播磨諸城の用材を官兵衛道を利用して運搬し、1年ほどで三層の天守の姫路城を完成させた。官兵衛道は中国大返しの時にも使用され、秀吉軍が驚異的な速さで進軍する上で役立った。官兵衛が土木工事の責任者として築城した姫路城は、石垣の相当部分が現在の姫路城にも野面積みの石垣(官兵衛石垣)として残っている。また、官兵衛道もほぼ現在の県道となって使用され、一部は姫路市内でほぼ往時の姿を留めている。

備中高松城の水攻め工事

その後の備中高松城の水攻めの時にも官兵衛の土木技術が力を発揮する。三方を沼で囲まれた城は秀吉の大軍をもってしても攻略することができなかった。そこで官兵衛は力攻めは無理と考え、秀吉に水攻めを建策した。これは城の南西部に約3kmの堤を築き、近くを流れる足守川の水を引き入れて城を水没させるものであった。時期はちょうど梅雨時であり、地盤のよくない土地で農民を駆り出して短期間で堤を作り、また石を積んだ舟を隙間なく川に浮かべ、船底から水を入れて瞬時に船を沈めて川を堰き止め、水の流れを築堤内に導いた。この方法は、現代の土木技術をもってしてもそう容易なものではない。ちなみに、日本三大水攻めはいずれも秀吉が関わっており、最初が備中高松城の水攻め、次いで紀州太田城の水攻め、最後が武蔵忍城(おしじょう)の水攻めであった。太田城の水攻めでは堤防が一部決壊するものの数日で修復し最後には水攻めは成功したが、石田三成が指揮を執った忍城の水攻めは堤防が決壊し失敗に終わった。これらを見ても官兵衛の土木技術の水準の高さが理解できる。この工事が特筆されるのは、梅雨時期に短期間で完成しただけでなく、無事水攻めが成功したことで中国大返しが可能となり、秀吉の天下取りへの道を開いた点にある。

各地の城の縄張り

この後、秀吉の全国統一が進み各地に城が築かれるようになると、官兵衛は分かっているだけでも自らの居城となった中津城、秀吉の大坂城、朝鮮出兵の前線司令部となった名護屋城、長政の福岡城で縄張りなどを行い、堀、石垣、建物の配置など城の全体計画を策定するとともに工事を監督した。これら縄張りにはソフト面では城攻めの豊富な経験とハード面での土木技術が必要であり、両方があって初めて堅固な城が完成する。

博多の復興支援

博多は古より大陸への玄関口、貿易港として栄えていたが、戦国末期には龍造寺氏、島津氏の攻撃により焦土と化した。秀吉は島津攻めを終えた後、博多に立ち寄り官兵衛に命じて博多の復興に取り掛からせ、入り江、湿地を埋め立て、道路と町の区画整理を行い、町を「流れ」という単位にまとめ現在に至っている。この街づくりは「太閤町割り」と呼ばれている。

←前へ 目次へ 次へ→