07 一途で模範的な夫

一夫多妻が普通で、側室を持つことが常識であった戦国時代において、一人の妻を大切にする模範的な夫であった。

幸圓との結婚

官兵衛は22歳で家督を継ぎ、同年御着城主小寺政職の媒酌によって志方城主櫛橋伊定(これさだ)の娘幸圓と結婚した。この結婚は櫛橋伊定が小寺政職、官兵衛と誼を結ぶための政略結婚であり、伊定は早くから官兵衛に目をつけていた。この時幸圓は15歳で、才色兼備の大柄な女性であったと伝えられている。

一夫一婦の誓い

官兵衛は幸圓を唯一の妻とし、側室を持たなかった。これは幸圓が官兵衛をよく理解するよき妻であり、官兵衛もまた幸圓に満足し、夫婦円満であったことの表れである。また、官兵衛がキリスト教を信じて一夫一婦を守っていたこともその理由と考えられる。キリシタン大名と言われる高山右近、蒲生氏郷、小西行長などの武将は皆側室を持っていなかった。一夫一婦を守ると言葉で言うのは簡単であるが、いざ実践するとなると家系存続のこともあり難しかったと思われる。官兵衛は生涯一人の妻を守った意思の強い人物であった。

家系存続

当時の戦国武将は一婦多妻が常識であり、信長、秀吉、家康はじめ多くの戦国武将が側室を持ち、多くの子供を作り、その中から優秀な後継ぎを選んで家を守り、また政略結婚によって勢力を維持、増大させようとしていた。そのような当時の常識からすれば、官兵衛の生き方は勇気が要ることであり、万事に用意周到な官兵衛としては、むしろ危険な生き方であった。事実、官兵衛には妻幸圓との間に息子が二人だけで、娘はおらず、二男熊之助は16歳の時に亡くなっている。官兵衛も妻一人で男子が少なければ家系が断絶する恐れがあると考えたに違いないが、同時に足利家、赤松家を始め多くの武家で妻、側室を巻き込んで家督相続争いが生じ、一族の力が弱まった先例も熟知し、単に跡継ぎが多いだけでは家系は安泰とならないとも考えていたはずである。いずれにしても官兵衛は自分の生き方として一夫一婦を守ることを優先し、夫婦円満にして家の和を維持し、少ない後継ぎを立派に育てることに全力を注いだように見える。一族、部下をよく教育し、嫡男長政に万一のことがあれば、彼らの中から自分の考えを踏襲する者を養子に迎え、跡継ぎにしようと考えたのかもしれない。

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