06 視野の広いキリシタン

キリスト教を信仰し、西洋文明にも関心を持った視野の広い、他人にも優しい人物であった。

キリスト教への入信

ルイス・フロイスの日本史によれば、官兵衛は天正12年(1584)に高山右近とその父らの説得によって大阪でキリスト教に入信しており、小寺シメオン官兵衛(かんびょうえ:Quambioye)と称した。当時の戦国大名の間では茶の湯とキリスト教が流行しており、高山右近ら茶の湯をたしなむキリシタン大名との付き合いの中で、徐々にキリスト教への関心を深めていったものと思われる。入信の動機ははっきりしていないが、官兵衛の心の中には他人に寛容に接するなど自己の考えとキリスト教の教義が一致する部分が既にあり、教義を受け入れやすかった面があったと思われる。また、このような純粋な信仰心の他、宣教師との交流による西洋技術の習得、鉄砲・火薬の入手などの実利もあったと思われる。

キリスト教徒の記録

官兵衛がキリスト教を信じていたことを記録するものは、国内には福岡県朝倉市の古刹円清寺の「黒田如水像」と洗礼名シメオン・ジョスイ(Simeon Josui)のローマ字印が押された書状が残っているだけであるが、海外には宣教師が残した日記、本国ポルトガルに送った書簡、報告書があり、官兵衛の名前はポルトガルまで知られていた。国内に記録が残っていない最大の理由は、秀吉のバテレン追放令、徳川幕府の禁教令のため、黒田家が記録を残さず史跡その他も破壊したためである。円清寺は黒田24騎の一人栗山利安が官兵衛を弔うために建てた寺であり、ここに伝わる「黒田如水像」の官兵衛の事績を記す文には、「一旦入南蛮宗門聞法談雖有年」と読める箇所がある。人目をはばかって少し削られているものの、これら13字はわずかに読み取ることができ、官兵衛がキリスト教に入信していたことを示している。

キリスト教徒としての活動

ルイス・フロイスの日本史には、官兵衛がキリスト教徒として布教活動を主導したり、宣教師を援助して布教活動を支援していたことが記録されているので、その一部を紹介する。記録は官兵衛が秀吉に代わって九州攻めの軍監として九州に入る天正14年(1586)頃からのもので、下関では司祭が定住することを認めるとともに、山口、下関で司祭に無期限で土地を提供すること、自由に布教することなどを認めた。また、下関では名声のある貴人たちに説教を聞かせ、およそ60人が洗礼を受けたほか、播磨から遠征してきた二人の弟にも説教を聞くよう命じ、弟たちは他の者とともに洗礼を受けた。毛利輝元の重臣たちは官兵衛の前では輝元の前に出る時以上に緊張していた。その官兵衛が司祭に対しては深い尊敬と恭順を示したので、キリシタンを顧みない人々はこれを見て驚嘆した。

官兵衛は九州攻めの戦場に修道士を帯同し、時間が許す限り自分の手元に置き、自ら世話をしながら兵たちに説教を聞かせるようにした。時には自ら教義について質問し、教えを聞くと満足し喜んだ。官兵衛が不慣れな手つきで十字を切り、祈り終えると頭と両手を床に着けひれ伏す姿は、真心がこもったもので一同に感銘を与えるものであったと言う。

官兵衛は諸城の用件を処理し武器等を補給しながら陣営内の武将達に書状を送り、自分のところに説教を聴聞にくるように勧め、説教を聴いた者についてはその回数、理解の程度、受洗を決意した日にちなどを把握していた。このように、官兵衛は一方では戦いに明け暮れながら、他方では布教活動を主導し、支援していた。

長政の受洗

ルイス・フロイスの日本史によれば、官兵衛は嫡男長政が遠路はるばる豊後まで訪ねて来た時、最初に次のように言った。「そなたが予を父と思い、とりわけ何事かにおいて予を喜ばせようと欲するならば、そなた、ただちにキリシタンの説教を聴いてもらいたい。だがそなたがキリシタンになることを強制しようとは思っていない。それは、我らの主なるデウス様が、そなたに与え給うはずの御恵みと、聴聞した教えについての理解のほどに待つべきことだからである」と。長政はかねてから聴聞を望んでいたので、官兵衛とともに修道士に会って聴聞を聴き、キリシタンになりたいとの意向を示したので洗礼が授けられ、ダミアンと称した。

棄教とキリシタンとしての最期

秀吉は天正15年(1587)九州平定直後に筑前箱崎でバテレン追放令を発し、キリスト教を迫害し始めた。ルイス・フロイスの日本史では、九州平定を終わって国分けを行おうとしていた秀吉のところに官兵衛が参上しても、官兵衛に会おうともしなかった。秀吉は官兵衛に三か国を与えるような期待を抱かせながら豊前しか与えず、それも豊前国の一部を接収して毛利吉成に与え、「汝がキリシタンゆえにこそこれを没収したのだ」と言ったと言う。この後、官兵衛は表面上棄教したが、浅野長政に領国内で司祭たちを庇護するよう取り計らうなど、キリスト教を保護し続けた。官兵衛は慶長9年(1604)に京都の伏見で亡くなったが、博多の教会でも葬儀が行われたと言われており、心の中では最後までキリシタンを貫いたようである。

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