05 文武両道の文化人

戦いの場にあっても、連歌、茶の湯をたしなむ文化人であった。

文武両道

戦国時代では下克上が横行し、軍団として武力が強大であること、武将としては統率力、決断力があること、また個人では武芸に長じていることが最低限必要であった。しかし、平常城主、家老として国を治める上では、武将としては情け深く教養を備えた人間的魅力があることも必要であった。そのため施政者としては「武道」ばかりではなく「文芸」にも通じた文武両道の人物が求められた。その意味では、官兵衛は文武両道の武将であったと言える。

福岡の菩提寺崇福寺の墓碑には官兵衛の子供時代の様子が書かれている。七歳で寺に入るが、勉強よりは遊びのほうが得意であった。十四歳で母を亡くしてからは一生懸命に勉強に励んだ。十七八歳の頃は和歌の道を愛し、三大集から八代集まで勉強し、この他に源氏物語、伊勢物語なども勉強した。この後の官兵衛は戦いの連続となるが、若い時の勉強はやがて後半生で花開く。中でも官兵衛が文芸の面で特筆されるのは連歌と茶の湯である。

連歌のたしなみ

連歌とは複数の作者により上の句(五七五)と下の句(七七)を順に作っていく和歌の連作であり、鎌倉時代に生まれ、戦国時代にも武家の教養の一つとして流行した。連歌は相手の詠んだ句に関連させて詠まなければ成り立たず、相当な文学的素養が必要である。官兵衛の母は関白近衛家に歌道を伝授していた明石城主明石正風の娘で和歌、連歌に造詣があり、官兵衛も幼少のころより母の影響を受けて連歌に親しんでいたと思われる。官兵衛は京都に滞在の折には当代随一の武家文人細川幽斎を始め公家衆とも交際し、連歌をたしなみ教養を高めた。特に幽斎からは、「新古今和歌集聞書」を贈られ、その奥書には「今、官兵衛はこの道(歌道)に執心であるのでこの書を贈る」との趣旨のことが記されており、官兵衛が歌道に熱心であり、相当の水準であったことが分かる。晩年、福岡で家族、友人と大宰府天満宮に奉納する連歌の会を催し、官兵衛が発句を詠み、幸圓以下が続く連歌が残っており、家族一同で和やかな雰囲気を楽しんでいたことが伝わっている。

茶の湯のたしなみ

当時の戦国武将の間では茶の湯をたしなむことが流行しており、特に信長、秀吉は津田宗及、千利休、今井宗久らを茶頭とし盛んに茶会を開いた。官兵衛が茶の湯を楽しんだことは「宗及茶湯日記自会記」で天正13年(1585)、40歳の時に津田宗及の茶会に蜂須賀正勝らとともに参加していたことでも分かる。また、官兵衛は千利休とも相当親しくしていたようであり、「自分が贈った色紙はどうぞ秘蔵してください」との利休の書状が残されている。また、晩年「黒田如水茶湯定書」を書き、これを水屋に掲げさせている。

一、       茶を挽くときには、いかにも静かに廻し、油断なく滞らぬように挽くべきこと
一、       茶碗以下の茶道具には、垢がつかないように度々洗っておくこと
一、       茶の湯をひと柄杓汲み取ったときには、水をひと柄杓差し加えておくこと、決して使い捨てや飲み捨てにしてはならない

官兵衛が説く心得は極めて素朴であり、華美なところは感じられず、利休流を守った教えである。

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