04 忠義を貫き命に従う

戦国時代末期にあって武士道と言う概念が未だなかった時代でも忠義を貫き、あくまでも主君の命に従った。

信長、小寺への忠節

荒木村重が信長に反旗を翻した時、主家の小寺政職もこれに同調したため、官兵衛は政職に対し次のように諌めた。「信長は天下を取る器量を持つ武将である。一旦信長に属しながらその約束を反故にして毛利に属することは不義となり、あってはならないことである」しかし、政職は官兵衛に同調しないばかりか、家中では官兵衛を誅殺すべきとの陰謀さえささやかれる状態となった。官兵衛は姫路城に戻り父職隆に相談すると、職隆は家老を集め、家老からは姫路城に立て籠もる、小寺との合戦も止むなしとの意見が出た。官兵衛は「姫路城に立て籠もることは小寺に対して謀反人になる。また、小寺と合戦に及べば不義の至りとなる。もし自分が小寺に討たれたとしても、自分は不義とはならず運命の定めであるので嘆くには当たらない。武門に生まれた以上は義を重んじ、命を惜しむべきでない」と答えると職隆も納得した。官兵衛はこれを受けて御着に赴き再度政職を説得したが政職は同調せず、信長に反旗を翻すことが決まった。御着城内では、官兵衛を誅殺すると職隆が姫路城に籠城し、これを攻めるのは一大事となるので、官兵衛は誅殺せず、政職が官兵衛に命じて荒木村重を信長に味方するよう説得に行かせることで決着した。この後、官兵衛は村重によって有岡城の牢に幽閉されることになるが、官兵衛の決死の行動により信長、小寺の双方に背くことなく忠義を貫くことができた。

宇都宮鎮房の誅殺

秀吉が九州攻めを終了し新たに九州の国分けを行った時、豊前六郡を官兵衛に与え、鎌倉時代以降から豊前で勢力を持っていた豪族宇都宮氏の当主鎮房(しげふさ)を四国伊予に移封するよう沙汰を下した。鎮房はこの決定に異を唱え、居城の城井谷城に立て籠もり抵抗を続けたため、秀吉は激怒し官兵衛に鎮房を討つことを命じた。正面から城攻めをしたのでは落城しないと考えた官兵衛は鎮房の娘鶴姫を長政に嫁がせる条件で鎮房と講和する形をとることとし、中津城内に招いた宴席で長政に謀殺させ、嫡男朝房、家臣も殺害した。秀吉の命令に従ったのではあったが、殺害を好まない官兵衛にとっては辛い選択であったろうと推察される。秀吉に代わって泥をかぶった形になったが、官兵衛には後ろめたさもあったと思われ、その後中津城内に神社を建て、鎮房と家臣の霊を祀った。

松田父子の誅殺

小田原城攻めの最終段階で、秀吉側の工作によって北条氏の重臣松田憲秀と次男笠原政堯の二人が内通してきた。憲秀の長男直憲は父と弟の内通を北条氏政、氏直に報告したため、二人は捕えられ城内に監禁された。小田原城開城後、二人が解放されところで秀吉から「松田を誅せよ」との命令が下った。命令を受けた官兵衛は憲秀、政堯の父子二人を成敗した。常識的には味方になった二人に咎めはなく、敵側の密告者直憲が成敗されるのが普通であるが、官兵衛は父子二人を成敗した。官兵衛は秀吉の命令に従った形をとりながら、どうせ成敗しなければならないなら敗戦間近になって主家を裏切るような者を成敗する方が筋が通っていると考え、父子二人を成敗したと思われる。

朝鮮出兵の大義と戦いでの出来事

秀吉の朝鮮出兵は大義のない戦いであり、罪のない多くの朝鮮の人々を殺害した点で官兵衛にとって不本意な戦いであるとの思いがあったことは間違いない。明との講和交渉における一連の出来事について、ルイス・フロイスの日本史は次のように記している。秀吉は朝鮮を攻める一方で、明の使節と名護屋で会い、朝鮮の領土を一部割譲すること、日本の臣下となり服従する証拠を示すことなどの条件を示し、これらを帰国して皇帝に伝えるよう要求した。秀吉はこれらの要求を明が受諾するかどうか分からず、また自己の勢力を誇示することもあって、官兵衛に使者を送り、まず全羅道を攻撃し次いで越冬のための城塞工事に着手するよう命令した。朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築しその後全羅道を攻撃する方針が有力であったので、官兵衛らが帰国して秀吉にこの考えを伝えることになった。この話を聞いた秀吉は大いに不満を表し、官兵衛に対して激高して面会せず、その俸禄と屋敷を没収した。そのため官兵衛は剃髪し、「予の権力、武勲、領地および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去って行った」といいながら、隠居願いを出し如水と名乗った。

官兵衛は合計3回朝鮮に渡海し作戦の指揮を執ったが、出来るだけ戦線を拡大せず人的被害を少なくする作戦を採り、朝鮮の奥深く攻め込もうとする小西行長とは作戦上で一線を画していた。表面上は秀吉の命令に従うものの、先を見通すことができる官兵衛は朝鮮出兵の失敗を見抜いていたと思われる。

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