02 大局を見据える戦略家

状況分析が的確で、大局を見据えた判断ができる戦略家であった。

信長方への参画

官兵衛は御着城小寺家の家老職であったころ、桶狭間の戦い、長篠の合戦で勝利を収めた信長が天下を取る器量を持っていることをいち早く見抜き、信長、毛利のいずれに味方すべきか思案する城主小寺政職と家中を信長に味方するよう説得した。その後、政職の代理として岐阜城で信長に対面し、播磨は毛利の領国との国境にあり、播磨を手に入れれば中国攻めが有利になるので、まず播磨に進攻するよう進言した。信長は「官兵衛の作戦は理にかなっており、自分の考えと同じである」と褒め、中国攻めでは総大将として秀吉を遣わすので官兵衛は先導役としてその配下に入って働くよう命じ、名刀圧切を与えた。

姫路城を秀吉に譲渡

三木城を落城させ播磨を平定した時、秀吉は三木に本拠を置こうとしたが、三木は播磨の中では東に偏りすぎているので、播磨の中心で広い平野があり、海も近く、交通にも便利な姫路を本拠とするよう勧め、自身は居城していた姫路城を秀吉に譲り、姫路の南にある妻鹿国府山城に移った。自分の城を献上するような行動は降伏でもしない限り考えられないが、官兵衛は自分が考える中国攻めに姫路の地は欠かせないと考えた。この後、官兵衛は秀吉から新たな姫路城の築城責任者に命じられ、姫路城が中国攻めの発進基地、また備中高松城から上方に戻る中国大返しの中継基地となり、秀吉の天下取りを支えることになった。

中国大返しの進言と実行

備中高松城を水攻めしていた時、本能寺で信長が明智光秀に攻められ自害したことを知り、秀吉に天下取りの好機が到来したことを進言した。そして、秀吉は官兵衛を交渉役として直ちに毛利方と和議を結び、200キロをわずか7日間で走破し通常の2倍の速さで上方に戻った。備中高松城から退く時、官兵衛は万一の毛利の心変わりを恐れ、堤を破壊して溜まった水を大河のように流して毛利方が容易に後攻めできないように進言し、さらに自らしんがりを務めてこれに備えた。また、事前に中継基地を設け、食糧、衣料などを周到に準備し、武具なども別送し、兵は身軽な姿で駆けたと言われる。この時、秀吉は姫路に一泊して兵を休息させる考えであったが、官兵衛は、兵を自宅に立ち寄らせると合戦に臨む気持ちが弱まるので、明智方の勢いが強くならないうちに一刻も早く上方に引き返し合戦に臨むよう強く進言した。また、秀吉も姫路城では手持ちの米、塩、金銀などを全て兵に分け与え、士気を鼓舞したと言われる。これが世に言う中国大返しである。この後秀吉は山崎の合戦で明智光秀の軍を破り、信長の後継者の立場を固めることになった。

九州関ヶ原の戦い

秀吉の死後、天下を狙う徳川家康は石田三成と激しく対立し、官兵衛は再度大きな戦いが起こることを予感した。三成が家康を打倒すべく挙兵すると、長政は大軍を率いて東軍家康の元に参陣した。当時中津の官兵衛の手元にはわずかな兵しか残っていなかったが、官兵衛は好機当来と見て、日ごろ蓄えていた金銀を使って秀吉の九州攻めで禄を失った浪人、百姓など多数を中津城に集めた。そして、かって豊前を支配し朝鮮の役で秀吉に改易された大友義統(よしむね)が旧領回復のため豊前に入った9月9日、官兵衛は西軍諸将を討つべく9千余のにわか作りの軍を率いて中津城から出陣し、石垣原(いしがきばる)の戦いで義統を破るなどして1か月ほどで豊後一円を平定した。官兵衛はこの後も進撃を続け、中津を経て小倉城、柳川城を攻め、11月12日に水俣に達し、残るは薩摩の島津のみとなった時、家康から停戦命令を受け中津に戻った。官兵衛は、家康、三成の戦いは相当長期化すると考え、その隙を狙って九州の西軍諸将を倒す名目で挙兵し天下を狙ったとも言われているが、関ヶ原の戦いは9月15日一日で家康が勝利したことは官兵衛にとって予想外であった。官兵衛は早船の連絡により数日後にはこれを知ったはずであるが、その後も2か月近く戦い続けていた理由については不明である。いずれにしても、九州中津にいながら隠居後も絶えず天下の動向に気を配っていたことは確かである。

←前へ 目次へ 次へ→