01 軍師・戦術家官兵衛

戦いにおいては極力武力を使わず、説得によって敵を降伏させることを最優先し、敵味方双方の犠牲を極力抑えるように考える軍師であり、戦術家であった。

官兵衛の戦術

城攻めにおいては、まず説得工作を試み、相手が応じない時は城を攻撃するが、いきなり力攻めはせず、地形など周囲の状況を考慮して水攻め、兵糧攻めなどを行う。このような作戦が行えない場合に初めて兵により攻撃を加えるが、その場合でも三方を囲み残り一方を開けておき逃げ口を設けている。城全体を囲うと、敵は逃げ場を失って全力で戦いを挑んでくるので味方の犠牲者が多くなるからである。これは孫子の兵法に言う「囲師必闕」(いしひっけつ)である。

このような攻めにより敵に圧力を加えながら自軍に有利な状況を作り出し、敵将にこれ以上の戦いは無理と感じさせた頃に降伏交渉に持ち込む。降伏させるまでに堤防の築造、出城の建設などの土木工事を行うため日数と費用を要するが、味方の兵の犠牲を最小限に抑え、また投降した兵を次の戦いで自軍の兵として使用することもできるため、兵力の増強にも役立つ利点がある。敵将を詰めて勝ちとなり、取った駒は味方として使用するという点で、官兵衛の戦いは、いわば「将棋の戦い」のようである。

播磨攻め、九州攻め

説得工作によって敵を降伏させる方法は官兵衛が最も得意とした。播磨攻めの時は、東播磨は官兵衛の説得によってほとんどが秀吉に服従した。九州攻めでは、秀吉が出陣する前に官兵衛が秀吉の名代、軍奉行として軍を指揮しながら説得工作を行った。この頃九州では秀吉の軍勢が強力であることを知らず、未だ秀吉に従わない者が多かった。そこで、官兵衛は書状を送って秀吉の武威を述べ、味方になれば本領を安堵する旨説得したので、豊前の他、筑前、筑後、肥前、肥後では降参する武将が多く、また実際に官兵衛が秀吉にその由取り次いだので官兵衛に感謝する者が多かった。

小田原城攻め

説得工作の中でも最も有名なものは北条氏の小田原城攻めである。北条氏政、氏直父子は秀吉の天下統一に最後まで抵抗し、秀吉は20万余りの大軍で小田原城を取り囲んだが、堅固な総構の小田原城は容易には落城しなかった。そこで秀吉は力攻めを諦め、一夜城を築くなどして引き続き城を取り囲む一方で官兵衛に説得工作を命じた。官兵衛は丸腰で単身城内に乗り込み、氏政、氏直父子に対面し、大軍に包囲された北条氏に勝ち目はないことを自覚させ、氏政と弟氏照の切腹と家名存続、城兵の命を保証することを条件に、三か月の籠城に及んだ小田原城を開城させた。官兵衛の理路整然とした話、誠実な態度が氏政、氏直父子の心を開かせたものである。官兵衛には北条氏から家伝の「日光一文字」の刀、鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鑑」、「白色の法螺貝」が贈られた。敗軍の将からお礼の品を贈られることは極めて稀であり、官兵衛の誠実な人柄が敵将からも認められた証である。

備中高松城の水攻め

毛利氏への中国攻めの時、官兵衛は備中高松城で水攻めを秀吉に献策、実行した。工事は築堤と川の堰き止めであり、折からの梅雨時期と重なって難航したが、増水した川からの水により城が次第に水没していく中、城主清水宗治は覚悟を決め、兄月照入道、弟難波伝兵衛らの切腹と城内の兵の助命を条件に降伏した。この機に秀吉は官兵衛を交渉役とし、領国の割譲条件を緩和して備後、因幡以西の中国七か国と備中半国の計八か国を安堵することで急ぎ毛利方と講和し、直ちに織田信長を倒した明智光秀を攻撃すべく上方に引き返した。

鳥取城の兵糧攻め

兵糧攻めは三木城、鳥取城で行われたが、いずれも城主の切腹を条件に籠城の兵を許している。官兵衛は鳥取城攻めに途中まで参加した。鳥取城は毛利方から吉川元春の家老経家が4千人の兵とともに立て籠もっていたが、秀吉は城の周囲に砦を築いて6万の兵で取り囲み、さらに城下の米を高値で買占め城内への兵糧を絶った。経家はこれ以上の抵抗は無意味と悟り、自分の切腹と城兵の助命を条件に籠城3か月余りで降伏した。

佐用城攻め

西播磨の佐用城攻めでは「囲師必闕」の戦法を使用した。官兵衛は先陣を務め、佐用城の三方を夜間に囲んで後方の一方は故意に開けて攻め、逃げ出してきた敵兵を伏兵に攻めさせて勝利を収めた。

勝龍寺城攻め

山崎の合戦での明智方との戦いで勝龍寺城を攻めた時にも、秀吉は官兵衛の進言により「囲師必闕」の戦法を使用した。光秀は勝龍寺城で必死に戦おうとしたが、大軍に取り囲まれた城内の兵は勝ち目がなく城を捨てて落ち延びようとするので、城の一方を開けておけば兵は落ち延び、城攻めも容易になるとの考えである。案の定、夜間に兵が大勢落ち延び、光秀までも従者5~6人を連れて城を捨てたが、逃げる途中で郷人により打ち取られた。

青山・土器山の戦い

播磨龍野城主赤松政秀は永禄12年(1569)5月、3千の兵を率いて姫路城を攻めるべく龍野を出発した。当時の姫路城は砦のようなもので防御能力が低く、また3百ほどの兵力しか動員できなかった。このため、官兵衛は籠城作戦を諦めて城を出て姫路西方の青山で敵を迎えることにし、姫路に向かう赤松方に奇襲攻撃を加え、一旦龍野城に退却させることに成功した。

龍野城に戻った政秀は翌6月再度3千の兵を率いて龍野城を出発し、対する官兵衛は姫路西方の夢前川東岸にある土器山に陣を張った。今度は政秀が夜に紛れて先制攻撃をかけ、黒田方を混乱に陥れた。官兵衛は少ない手勢で必死に防戦したが、10倍にも及ぶ兵力の差はどうしようもなく、窮地に立たされた。ここで、英賀城主三木通秋が280ほどの兵を率いて駆け付け、父小寺職隆(もとたか)も姫路城から援軍を送ったため、赤松方は姫路東方の小丸山に退却した。黒田軍は大きな被害を受けたが、官兵衛は戦力に劣る黒田方は戦いが長引くと不利になると考え、体制を立て直し同日夜に土器山の敵本陣を急襲した。直前の戦いで黒田方に大きな被害を与えた赤松方は、わずか数時間後に攻めてくることを予想しておらず大混乱のうちに龍野城に敗走し、官兵衛は辛くも勝利を収めた。

圧倒的な兵力の差で苦戦したこれらの戦いは官兵衛が指揮を執った最初の戦いであった。

英賀合戦

御着城主小寺政職(まさもと)が官兵衛の進言により信長に味方したことは毛利輝元の知るところとなり、輝元は5千余りの軍勢を播磨の英賀の海岸に上陸させ、姫路城を攻めようとした。官兵衛は政職に小勢で敵の大軍に立ち向かうためには敵の不意を襲う他はないと進言し、敵が小勢と見くびり油断している隙を突き、周辺の農民を集めて幟、旗、鐘、太鼓を持たせて待機させ、毛利方に攻め込むと同時に鬨の声を上げさせ大軍の襲来と見せかけた。毛利方は押し寄せた意外な大軍に驚き、混乱のうちに海岸に追い詰められ海上から逃げ帰った。自軍の10倍もの敵を知力によって撃退した官兵衛の戦いは信長に報告され、信長はこれを大いに喜び荒木村重を通じて感状を与えた。

三木城周辺での戦い

三木城攻めの時、城近くの山の陰に4~5百ほどの兵が伏せているのを秀吉が見つけ、敵か味方かを問うた。竹中半兵衛はこれを見て次のように答えた。「今日の合戦は必ず勝ちます。その理由はあの伏兵たちは敵ではなく、官兵衛の兵だからです。私と申し合わせてはいませんが、官兵衛は私がここにいることを知っています。官兵衛の兵の様子を見ると、城から兵を出し神子田半左衛門が戦う時、故意に兵を逃がす手立てがあります。敵は必ず後を追って来るので、その時に官兵衛が伏兵を動かし後から追い打ちにし、敵がこの本陣の前を通ったらここからも兵を繰り出し、横からも攻めるのです」秀吉はこれを聞いて尤もと感じ、そのように指図した。戦いは筋書通りに展開し、見事な連携により勝利を収めたので、秀吉は官兵衛と半兵衛の作戦に感じ入った次第である。

官兵衛と半兵衛はお互いに評価し信頼し合う中であり、良将は良将の作戦をよく知るものである。この二人が同じ戦いに参加することは少なく、その意味でこの戦いは珍しい戦いであった。

山崎合戦への備え

備中高松城水攻めの後に毛利輝元と講和した時、官兵衛は小早川隆景から毛利の旗20本、宇喜多秀家からも宇喜多の旗10本を借り受けた。官兵衛は摂津の国まで戻った頃にこれを秀吉軍の先頭に押し立てて上方に攻め上った。これは明智方、上方の武将たちに毛利、宇喜多が秀吉に味方したように見せかけるもので、明智方の戦意を失わせ、秀吉軍を奮い立たせる上で効果があった。秀吉は「このような手立ては若い武将も今後参考にすべきである。敵と戦うのは当然であるが、官兵衛のような手立ては普通の人にはできるものではない。このような手立てが本当の功績というものである」と賞賛した。

岩倉城攻め

四国阿波の岩倉城攻めで城攻めの方法を秀次に尋ねられた官兵衛は、長宗我部掃部助が守る岩倉城は地形が急峻で力攻めは困難と判断し、材木を集めて城中の櫓より高く組み上げ、この上に大鉄砲を据えて城中に打ち込み、また鬨の声をあげさせて敵を威嚇するよう進言した。このように城を取り囲まれると兵の戦意も低下したため、官兵衛は頃合いを見て和議を申し入れ、長宗我部掃部助も遂に戦いを諦め降伏し、兵を引き連れて土佐に帰った。これを見ていた阿波、讃岐の諸城も戦わずして次々に降参した。

戦術の評価

以上のように、官兵衛は敵に戦力を誇示しながら説得工作を行い、多くの敵を少ない犠牲で降伏させた。説得工作の成功の裏には官兵衛の弁舌が優れていたことがあったが、それ以上に相手の立場も考慮する官兵衛の誠実さ、人間性が相手にも伝わったからに他ならない。官兵衛が説得時の約束を守り、降伏した武将も相応の立場が守られることが周辺にも伝わるため、説得工作が次々に成功するのである。官兵衛は力攻めをしない城攻めも得意であり、戦術は野戦においても多種多彩であった。これらの多くは孫子の兵法に基づいた合理的な戦法であり、兵力差、地形、相手の心理状態など、状況に応じて戦法を使い分ける官兵衛の戦術の巧みさを表している。

このような臨機応変の戦法により、官兵衛は生涯戦で負けることはなかった。言い換えれば、卓越した情報収集能力と冷静な彼我の戦力分析により負けそうな戦いはしなかったとも言える。これが、官兵衛が「稀代の軍師」と称される所以でもある。

ちなみに、秀吉の戦いの中で官兵衛が関わった戦いは全て勝利を収めたのに対し、官兵衛が関わらなかった小牧長久手の戦いでは、10万の秀吉軍は家康と信長の二男信雄の1万6千ほどの連合軍に局地戦で敗北した。戦いは結局和議に持ち込まれたが、以後家康は秀吉に臣下の礼を尽くすものの、秀吉は家康の存在を強く認めざるを得なくなった。

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